贈りものとして書く文章
共感強化練習会に参加してくれた鹿児島の牧師の久保木聡さんと話していて、はっとさせられたことがある。
詳しい文脈の記憶はぼやけてしまったけれど、久保木さんがある雑誌に文章を連載していることについて、「贈りものとして書く」というような表現を使われたのだ。
そのことばだけがハイライトのように私の意識をとらえて、そうだった、私ももともと、自分がなにかを書くのはだれかにたいする贈りものとしてなのだった、と思い出してはっとなった。
文章にかぎらず、共感的コミュニケーションでは自分が人にたいしてなにかをおこなうとき、贈りものとしてそこに「置く」ようにする。
逆のこともいえる。
だれかになにかされたとき、いわれたとき、それがたとえ自分にとって都合が悪いようなことであっても、その人からの贈りものと見ることができるかどうか。
私が子どものころから文章を書くのが好きだったのは、もちろん自分が楽しいからということが一番にあることは確かだが、つぎにだれかに読んでもらえること、読んでくれた人が楽しんだりおもしろがってくれることがうれしいからだった。
だれかに贈りものをするときもそんな心持ちではないだろうか。
まずは自分が楽しいから贈りものについてかんがえたり、選んだり、買ったり作ったりする。
それを相手に差し出すとき、相手が喜んでくれたらうれしいけれど、相手にとって不要なこともあるかもしれない。
相手が受け取ってくれなかったときはちょっと悲しかったり残念だったりするけれど、そのときの相手の都合やニーズも尊重できるかどうか。
贈りものは相手が受け取りやすいように、あるいは無理に受け取らなくてもすむように、私と相手のあいだにそっと置かれるのが望ましい。
押し付けたり、勝手に送りつけたりするものであっては、相手を尊重することにはならないし、自分自身を大切にしていることにもならない。
私がなにか文章を書く。
このようなブログ記事でもいいし、小説でもいい。
まずは私が楽しくて書いているのだ。
つぎにそれを私とだれかのあいだにそっと差し出す。
だれかがそれを取ってくれるかもしれないし、取らないかもしれない。
ひょっとしたら、取ってそれを味わってくれるかもしれないし、フィードバックをくれるかもしれない。
贈り合いが生まれるかもしれない。
それはとてもうれしいことだが、強要であってはならない。
といろいろ書いてきたが、一番いいたいのは、私は好きでものを書いているのだし、またそれを贈りものとしてそっと目の前に置くことにわくわくを感じているのだ、ということに、久保木さんとの対話を通してあらためて思いださせてもらったということだ。
久保木さん、ありがとう。