冷蔵庫に忘れて傷みかけたきゅうりを発見したときのニーズ
共感的コミュニケーションを学びはじめた人から、よく、
「ニーズのことばを知らないからうまく共感できません」
といわれることがある。
たしかにニーズリストにはたくさんのことばが並んでいる。
尊重
帰属意識
一貫性
相互依存
親密さ
本物さ
秩序
インスピレーション
いわれればたしかにそういうニーズはあるよな、と思うものの、普段あまり使わなかったり、自分の語彙にはない言葉だったりするものも多い。
知らないことばやなじみのないことばは、実際に使うことができないから、共感できない、と思ってしまうのも無理はない。
また、すこし学習が進んできた人からは、
「ニーズはことばじゃないですよね」
ということも聞くことがある。
それもたしかにそうだけど、ことばじゃないとしたらなにをもってニーズをつかめばいいのだ、ということになる。
共感的コミュニケーションを長らく学んだり、教えたりしている人は、多くが、
「ニーズはことばじゃないですよ。身体感覚ですよ」
といったりする。
はっきりいって、雲をつかむような話だ。
表題のような設定を思いついた。
サラダかなにかに使おうと思って買って、冷蔵庫にしまっておいたのに、なにかにまぎれてすっかり使い忘れていて、見たら傷みかけているきゅうりがあった。
「うわ、食べないともったいない!」
と思う。
その「もったいない」という感情のもとにあるニーズはなんだろう。
いろいろな議論や検証があったけれど、いまのところ、たくさん種類があるニーズリストやニーズカードのなかにたいていはいっている「命の祝福」ということばが一番しっくりくるんじゃないか、というところに落ちついている。
変なことばだな、と思う。
たしかにそんなニーズだけど、使いなれていないし、頭では理解できるけれど、身体に落ちる感じは(私には)あんまりない。
しかし、傷みかけたきゅうりを発見したとき、たしかに感情が生まれ、なんらかのニーズがいきいきとしている。
その証拠に、ほら、あなたはもう動きたくてしかたがなくなっている。
強いニーズに突き動かされて、きゅうりを冷蔵庫から救出し、調理しようとしている。
そのニーズに名前をつけるまでもなく、あなたはもう動きだしている。
動きたいという身体感覚がある。
それがニーズだろうと思う、たとえ言語化されていなくても。
よくよく見れば、冒頭に列挙した「尊重」だの「帰属意識」だの「一貫性」だのといったことばも、ことばに置きかえればそういうことになるけれど、じつは身体感覚なのだ。
その身体感覚があれば人は自然に動きたくなるし、またいきいきと、パワフルな行動が生まれる。
共感というのは、自分にせよ相手にせよニーズに「名前をつける」ことではなく(それも有効だが)、そのニーズのことばがあらわしている身体感覚に気づくことなのだ。