偶有性の海でなにひとつ(病気すら)コントロールできないことを実感する(末期ガンをサーフする(24))
10月9日、水曜日。午前10時。
24回めの放射線治療のために東京都立多摩総合医療センターに行く。
治療後、非暴力コミュニケーション(NVC)の仲間で音読トレーナーのりひとくんと、湘南の海までサーフィンに行く約束をしていた。
りひとくんはサーフィン初体験、私もまだ4回めという初心者同士で、鵠沼海岸のサーフショップの入門スクールを予約してあった。
車を出して、国立から中央道に乗って八王子まで。
圏央道に乗り換え、南下。
鵠沼海岸は国立から見るとほぼ真南に位置している。
車で1時間ちょっと。
途中、厚木のサービスエリアで早めのランチ休憩。
体重減少阻止! ということで、豚骨ラーメンをしっかりいただく。
入門スクールは私とりひとくんのほかに、これも初体験だという若めの中年(変ないいかただけど)男性がひとり、そして母娘らしいふたり連れの女性(こちらは数回経験ずみのようだ)の計5人。
インストラクターは、私にはおなじみになったモトさん。
みんなでボードをかかえて、えっちらおっちらとビーチまで歩く。
波はおだやかだが、ときたま大きめ(といっても胸くらい?)のものがつづけて打ちよせてきて、巻き波となる。
慣れていないとボードごと持っていかれて、なかなか沖へ出られない。
そのあたり、私はだいぶ慣れたのと、もともと子どものころから海遊びが好きだったこと、そして学生時代からヨットをやっていたのとで、あまり苦労はない。
波と風、空、雲、砂、鳥、人々。
どれひとつ取っても、一瞬だにとどまっているものはない。
すべてが変化しつづけ、海にはいればその巨大なエネルギーの流れのなかになにひとつコントロールできるものなどないことを体感する。
波に乗るというのは、自分やボードをコントロールすることではなく、自然エネルギーにのなかで翻弄されながらも自分がかろうじて存在できる隙間をさぐり、見極め、遊ばせてもらうということだ。
最初はどうやってコントロールしようか、どうやればうまく乗れるのか、テクニックはどうやって身につけるのか、などとかんがえて、家で練習したりして、そうやって海に行くのだが、はいってみると一瞬にしてそんな準備はなんの役にも立たないことを悟る。
無限の偶有性の満ちた自然条件のなかで、ただただ自分がどうやれば存在を許してもらえるのか、謙虚にならざるをえない。
そこに存在する自分の生命もまた、とてもちっぽけなものではあるけれど、コントロールなどできない自然の一部であることに気づく。
本来なら普段の生活でもそれがあたりまえのことなのだが、人類が長年かけて築きあげてきた巨大物質文明の環境に囲まれて(守られて)いるせいで、まったく忘れてしまっているだけのことだ。
病気になれば薬でなんとかできると思っているし、薬でどうしようもない病も病院に行って医者にかかればなんとかなると信じている。
病気になって調子が悪くなるのは、機械がどこか故障して不具合が起こるようなもので、その不具合を見つけて修理したり交換したり油をさせば元にもどると思っている。
ちっぽけな存在ではあるけれど、人間という自然現象は、そんな単純なものではない。
そのことを全身で教わり、実感したのは、韓氏意拳という武術に出会ったからだった。
私が韓氏意拳という中国伝統武術の流れをくむ武術の会に入門したのは、2013年の春のことだった。
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