延命のための延命ではなくいまこの瞬間を生きること(末期ガンをサーフする(10b))
(aからのつづき)
20代前半はバンドマン生活を、後半はピアノ教師とラジオ番組制作を、30代は職業作家を、後半からパソコン通信などネットの世界へ。
40代はインターネットの世界へ。
ずっと「自分を誇示すること」や「経済競争」の世界でやみくもにやってきた。
2000年にネットコンテンツの仕事をすることになり、会社を立ちあげ、北陸の田舎から東京に仕事場を移すも、事業はあえなく頓挫。
もくろみははずれたけど、そのまま東京でほそぼそとラジオやオーディオブックの製作をつづけていた。
その過程で(私的には)金脈を掘りあてた(経済的な意味ではない)。
それは商業的な枠組みとは別個の、本来的な「表現」を研究し、実践することで、そこにはいまも追求しつづけている声と身体、マインドフルネス、自己共感というキーワードがあった。
とくにマインドフルネスは本質的な実践だった。
そもそも仏陀の時代から追求されてきたことであり、人間がみずからの安心安全のために物質文明を築きあげ、経済社会システムや支配構造を作りはじめたときから起こってきた問題に個人が対処するための考え方といえる(狩猟採取時代はそんものは必要なかった)。
私はいまこの瞬間を生きている。
ただそれだけのことを深く認知する必要がある。
即興ピアノを演奏し、朗読表現を指導し、また朗読者と共演する過程で、もっとも重要なことは、なにかをあらかじめたくらんでそれをなぞる練習をするのではなく、いまこの瞬間の自分自身の状態とまわりに気づきつづけ、応じつづけられること。
つまり、マインドフルネスであり、フロー状態といいかえることもできる。
あらかじめこうやろう、こう演奏しよう、こう読もうと枠組みを作って準備し、何度もそれをなぞって本番でも再現できるように練習するのは、不安を打ち消すための消極的な行為にすぎない。
ものごとは流動的であり、たえず変化している。
それを受け入れることに怖さがあり、その不安を打ち消すためにあらかじめなにかを構築して、準備しておく。
戦いに備えて巨大な城を築くようなものだ。
しかし現実は変化しつづけている。
いざ本番の舞台に立ったとき、想定していたような環境、観客であるとは限らない。
また、それよりもまず、自分自身がたえまなく変化しつづけているではないか。
自分自身の変化を受け入れることもまた、怖さがある。
死を含め。
しかしその変化に目を向け、受け入れ、応じて生きていくことが、マインドフルネスといえる。
マインドフルネスを生きれば人生はいまこの瞬間の一瞬に凝縮される。
明日死ぬ人生も、80年生きる人生も、あるいは120年生きるかもしれない人生も、いまこの瞬間を生きているということにおいては全員ひとしく変わらない。
いまこの瞬間をどのような質で生きているか、人生の長短にかかわらずそれがもっとも重要なのだ。
まだたくさん生きられると油断して毎日をだらだらと無為にすごすことより、いまこの瞬間の生に気づき、自分自身を味わいつくしながら生きていくほうがいいと、私は選択している。
ピアノを弾いている瞬間も、ものを書いている瞬間も、だれかと会っている瞬間も、ひとりで食事している瞬間も、眠りにつこうとしている瞬間も、私自身を生きて味わっている。
そういった瞬間の積みかさねがなにかをもたらすかもしれないし、もたらさないかもしれないが、それは結果にすぎない。
末期ガンを生きるとわかったとき、私が決めたのは、これまでと変わりなく生きること。
いまこの瞬間の生の質をできるだけ高め、味わいながら生きていくこと。
したがって、ただ命を長らえさせることが目的の延命治療は受けないことにした。
とくに生活の質をいちじるしく低下させる可能性のある治療法は、私にとって選択肢の外にあることは明らかだった。
それは最初からわかっていたことだった。
もっとも、私がそう選択して決めることと、周囲にそれを受け入れてもらうこととは、また別の話ではあった。
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