私が生きている意味

今週というか前の週の月曜日から、北陸の実家に帰省していました。
羽田から小松への飛行機はなぜか満席で、私のとなりにはもうすぐ2歳になるという小さな女の子を連れたお母さんが乗りました。
私は子どもが大好きなのでまったく気にならないんですが、女の子は動きたい盛りで、もちろんせまい飛行機の席にじっとしているのは大変で、お母さんに抱っこされたまま足を伸ばして前のシートの背を蹴ったり、もらったおもちゃを床に落としたり、歩きまわりたくてぐずったり、大変です。

お母さんはなんとか、持ってきた絵本を読み聞かせたりして、子どもをおとなしくさせようとするんですが、なかなかうまくいきません。

こっちはかまわないのに、お母さんは自分の子どもがまわりに迷惑をかけないかと気をもんでいるようすが、ひしひしと伝わってきました。

ばたばたする女の子の足が私を蹴ってしまったりするたびに、お母さんは恐縮したようすで私にわびをいれるのですが、私は全然気にならないので、正直に、
「大丈夫ですよ。なにかお手伝いできることがあればなんでもいってくださいね」
と伝えました。

羽田=小松のフライトは短くて、離陸して30分もたたないうちにもう着陸態勢にはいります。
北アルプスが見えてきて、高度がさがっていきます。
窓際の席にすわっていた私は、女の子に外の景色を見せたくて、
「お山が見えるよ。雪がまだあるよ」
と話しかけたら、女の子は興味をおぼえたらしくて、窓の外をのぞきこみました。
そこで、
「こっちに来る?」
とさそって、膝の上に乗せてあげたら、すぐに落ち着いて外を見はじめました。

女の子はしのちゃんという名前で、私がかつて書いた長編小説『赤日の曠野』(いまてんトコラがネットライブで連続朗読をしてくれている)のヒロインの名前「志乃」とかさなって、うれしくなりました。
もちろんそんなことは話さなかったですが。

お母さんは恐縮していましたが、私はしのちゃんが安心して私の膝の上に来て抱かれてくれたのがうれしくてしかたがありません。
窓の外はどんどん地上に近づいてきて、家や道路が見えてきて、おもちゃのような車が走っているのが見えてきます。
それをいっしょに見たり、話したりしながら、飛行場が近づいてくるあいだに、しのちゃんは私の膝の上でそのまま眠りそうになってしまいました。

幸せな時間はあっという間にすぎ、着陸したあと私はしのちゃんをお母さんに返しました。
お母さんは私にお礼をいいましたが、お礼をいうのはこちらのほうでした。

私はあとどのくらいかわかりませんが、十年、二十年、そのくらいの年月でこの世をおさらばしますが、そのときにしのちゃんが幸せに生きられる世の中になっていることにすこしでも、自分の力がおよぶかぎり貢献したいという気持ちがあります。
そのことが私の挑戦であり、ゲームでもあるのです。
私がいまここにこうして生きている意味を、私はそこに見出しています。

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