ラストメッセージ(3)命の祭は解脱(げだつ)の対極にある

〔末期ガンをサーフする3〕

多くの人がいまの時代や社会情勢に不安や生きづらさを覚えている。
それを解消するためのさまざまな講座やワークショップ、合宿が多く開催されていて、どれも人気だ。
そういうイベントにやってくる人はなにをもとめているのだろうか。

私の経験では、多くの人が「心の平安」「動じない強さ」「怒りや不安のコントロール」といったことを求めているような気がする。

私が末期ガンを告げられ、余命をかぎられたなかで平然とすごしている(ように見える)のを見て、多くの人が、
「どうしたらそんなふうに落ち着いていられるんですか」
と訊いてくる。

いやいや、そんなことはありません。
それはそういうふうに見えるだけです。
たしかに表面的には取り乱しているようには見えないし、死を前にして決然とした覚悟で落ち着いているように見えるかもしれない。
が、私の内側では「お祭り」が開催されている。

人にはさまざまなニーズがあり、生きているとそれは刻一刻と変化し、現れては消え、また消えては現れる。
ニーズは自分の努力や人のたすけによって満たされることもあれば、どうにも満たされないこともある。
しかし、さまざまなニーズが現れたり消えたり、存在を主張したり、そのあげくに「おれはここにいるぞ」とばかりに大声を出したり踊ったりしてみせているのが、生命の自然な現象であろうと思う。

それがあまりに騒々しい、わずわらしい、苦しいと感じて、静まりたい、落ち着きたい、解脱したいと、人はしばしば願いすぎることがある。
その願いが強すぎると、平安や解脱を求めてある種の宗教に走ったり、スピリチュアルな癒やしを求める儀式にはまったりする。

それはそれで自然な願いであろう。
私も自分のかぎられた命の時間を思うとき、できるだけ平安に、平穏に、静かにすごしたいと願うこともあるし、その気持ちはよくわかる。
一方で非暴力コミュニケーションで自分自身に共感してみて、さまざまなニーズがやかましく自己主張をくりかえしているのを見ると、まあそれもいとおしく、自然なことなのだろうとも思う。

私の命は日々刻々とニーズカーニバルをやっている。
それは解脱とは対極にある騒々しくにぎやかな世界で、ときに疲れてしまうこともあるが、それが私の命の現象なのだからしかたがない。
ならば私もその山車に乗って踊ってみよう。

私のニーズたちは満たされれば「お祝いしようぜ!」といって盛大に騒ぎたてるし、満たされなければ「嘆きたい!」といって盛大に残念がる。
いずれにしても祭だ。
それが私の命の現象であり、生きているということだ。

ニーズが満たされるか満たされないかは、究極のところどちらでもいい。
解脱とかくそくらえ(汚いことばで失礼!)。
私は死ぬまで祭と付き合い、それを楽しむのだ。

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