「正直であること」と「わがまま」の違い

共感的コミュニケーションでは自分のニーズにつながり、自分が本当に大切にしていること、必要としていることを満たすためになにができるか、といういきいきとした行動が重要だと説かれている。
『NVC』の著者であるマーシャル・ローゼンバーグは、著書のなかでも、また公開されているワークショップ映像のなかでも、
「自分がやりたいことだけやりなさい。やりたくない、気が向かないことは一切やらないほうがいい」
と説いている。

共感的コミュニケーションの学びが進んでくると、そのことが本当に有効であり、また大切なことなのだと理解できるけれど、学びがあさいうちはそのことがよく理解されなかった。
実際に勉強会で参加者から、
「そんなふうにふるまう人ばかりだと、世の中、混乱するんじゃないですか」
と訊かれることがある。

その心配も理解できるが、ここで重要なのは、表題にあるとおり、「わがまま」にふるまうことと自分のニーズに忠実で「正直である」ことは別のことである、ということをわかっておく必要がある。

わがままというのは、たとえば、子どもが親に連れられておもちゃ売り場に行き、どうしてもほしいおもちゃがあるのに買ってもらえないとわかったときに、床に寝ころがってじたばたし、買ってくれないとこの場を動かないといって親を困らせてしまうような行動のことだ。
だれもがそういう光景を見たことがあるだろう。

大人でもそういう行動を取ることがある。
なにかをやろうとして、「おれの方法のほうがいい」「いや、私のこの方法がベスト」などと主張しあって対立してしまう。
日常茶飯事だろう。

そんなとき、「わがまま」からさらに一歩踏みこんで、自分は、あるいは相手は、なにを必要としているからそんな方法を主張しているのだろうか、と見ていくのが、共感的コミュニケーションの方法だ。
つまり、ニーズを理解する。

蒸し暑くてエアコンの温度を下げたいと思っているのに、 同居人は温度を下げすぎるのは嫌だという。
これまでずっとその繰り返しで、お互いに腹が立ってうんざりする。
もうこのことには触れたくないのに、実際に蒸し暑くて不愉快だ。
さて、どうすればいい?
無理やり主張を通して、エアコンの温度を下げさせる?
それともずっと我慢しつづける?

わがままを通せば相手をないがしろにしてしまう。
かといって自分が我慢しつづけるのも、自分がかわいそうだ。

そんなとき、お互いにどんなニーズがあるのだろうか。
こちらは蒸し暑くて不快で、快適さを必要としている。
相手はなんだろう? 聞いてみてはどうだろうか。
ひょっとして健康を気遣っているのだろうか?

お互いのニーズを正直に伝えあうことはできる。
ここで「正直」ということばが出てくる。
自分のニーズを正直に相手に伝える。
相手のニーズも正直に伝えてもらう。
それがわかったとき、ではどうすればお互いのニーズをないがしろにせず、協力しあってやっていけるか、なにかいい方法がないものだろうかと、いっしょにかんがえはじめけることができる。

これが「わがまま」と「正直」の違いだ。
「正直であること」は自分と相手を大切にすることであって、決して「わがまま」にふるまうことで相手をないがしろにすることではない。

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