エッセイ / 自他の境界について考える
最近、お気に入りのポッドキャスト聴いていて、「ホースコーチング」というものを知った。
そのポッドキャストでは以下のようなことが語られていて、「確かに本来、自分と他者との境界線って、確固たるものではなくて、その都度変わるものだよなぁ」と思わされた。
私を含め、多くの人は、「昨日会ったAさんは、今日も同じAさんだ」という前提に立っている。自分自身についても同様に、生まれてから今まで「確固たる自分」として存在し続けていると信じている。
でも本当は、自分をつくりだす境界線は時と場合によって、濃くなったり薄くなったり、広がったり狭まったりしているんだろうなぁと思う。つまりは自分やAさんも、時と場合によってつねに変化しているんだよなぁと思う。
大好きな人といるときは、その人と自分が一心同体になったような気持ちになる。その人の幸せがそのまま自分の幸せで、その人の悲しみがそのまま自分の悲しみに感じられるようなあの時、きっと「自分」の範囲は、大好きな人をまるっと含んだものに拡張されているはずだ。
その境界線が世界全体まで広がり、自分=世界になるのが、本当の利他性であり、アドラーの言う「共同体感覚」であり、藤田一照さんの言う「WeのOS」なのかもしれない。
でも一方で、むやみやたらと自分の境界線を溶かし、拡張していくことが正しいってわけでもないと、私は思っている。
私は数年前に、「クラニオセイクラルセラピー」という療法を受けたことがある。今になって改めてネットで調べてみると、「頭蓋骨から背骨、仙骨(骨盤の中央にある骨)に至る中枢神経の一番外側の膜を解放することで、脳から脊髄を満たしている液体の循環を促進する療法」らしい。
…うん、よくわからないよね。当時の私もその療法の意味は全く理解していなかったんだけど、たまたまその施術者の方と知り合い、「受けてみない?」と誘われたので、物は試しと受けてみたのだった。
施術の内容は、台の上にうつぶせに寝転がった私の背中に、施術者の方がただ手のひらを当てるというもの。施術者の方は男性だったので、「もしかして、なにかよからぬことが起こるのではないか!?」というハラハラした思いが頭をかすめながらも、じっと施術を受けていると、次第に自分の身体がドロドロに溶けていくような感覚におそわれはじめた。
「なんだこれは…?」と驚きながらも、決して心地の悪い感覚ではなく、私はその感覚に身を委ねつづけた。自分の身体とまわりの世界との境界線が溶けて、世界とひとつになるような、不思議な感覚だった。
施術後、施術者の方に感想を伝えると、こんな言葉が返ってきた。
その日以来この言葉は、私のなかにゆるやかに残り続ける言葉になっている。クラニオセイクラルセラピーの原理は未だによくわからないけど、この言葉と出会えたことや、「自他の境界がなくなる」感覚が体感として理解できたことは、私にとってすごく大切なことだったと思う。
自分の範囲を拡張して、周りの他者や、世界のことを自分のことのように捉えられるようになったら、それはとても素敵なことだ。でも生きていくなかでは、自分を守るために境界線をこさえなくてはならない場面もきっとある。だから大切なのは、馬たちがするように、毎回、毎瞬、自分の境界があることに意識的になりながら、その場に応じたあり方にチューニングしていくことなのかもしれない。
ゆらゆら、ゆらゆら。広がって、ちぢんで。濃くなって、薄くなって。そんな風に、自分を自在に伸びちぢみさせられるようになったら、なんだか人生もっと楽しくなりそうだ。
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