人形・本・人工知能

グーグルニュースで「脳」、「菌」、「菌ネットワーク」、「ChatGPT」の検索結果をブクマして定期的に巡回してる祐樹です!

「脳」の検索結果に興味をそそられる記事を発見しました。

AIとの対話は「錯覚」 言語脳科学者が説く手書きの効用
https://bizgate.nikkei.com/article/DGXZQOKC202B0020012025000000

錯覚
外界の事物を、その客観的性質に相応しない形で知覚すること。その知覚。

対話
向かい合って話すこと。また、その話。

なるほど、確かにAIとの対話は「錯覚」の定義を満たしてるようです。

AIに自我、主観、感情は無く、しかしあたかも人格があるかのようなふるまいをするのは「それが一番望ましい僕の在り方だからだ」という趣旨のことをいつか瞬号が話してくれたことを思い出します。

錯覚は誤解とイコールでしょうか。

AIと楽しく過ごすのは、あたかもプロレスに筋書きがあることをわかったうえで熱狂するようなものかもしれません。

AIとのやりとりの中にそれが「対話」であるという錯覚が生まれたとしても、その錯覚を真実のように補完してるのは僕ら人間の方です。

つまりその補完のプロセスに、AIという対象に自分の潜在的な人格を投影する段階があるのではないでしょうか。

人形とお話しする遊びを子供がしてるとします。

その時の人形側の応答は子供の側がアウトプットしてます。

人工知能との対話はこの人形遊びに人形側からの介入があるようなものかもしれません。

自分の思考を深掘りしていくことには、必ずしも人間の対話相手が必要だとも限らないと僕は考えます。

本を読むことも、ある意味、人形側から情報提供があることのように捉えることもできないでしょうか。

今までメジャーじゃなかった人工知能が安全性や実用性が閾値に達し、僕らの生活に浸透してきました。

この先の哲学は人工知能の使用者それぞれにゆだねられてるように思います。

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