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"サーバーメンテナンス中"という画面にお辞儀をしたくなる話。
ふと幸せな気持ちになった夕方だったので、それを書き留めたくなった。もっと言うなら、誰かに受け取ってもらいたくて文章を書いた。
これは、そこにあったものが無くなっていた話。
夕方17時過ぎ、スーパーに買い物に出かけた。朝食に食べる納豆と卵を1週間分。ついでに妻が好きなバニラアイスも買う。こんなことで愛情表現が出来たつもりになれるのは、こんなことで喜んでくれる妻のおかげだなといつも思う。
そんないつもの買い物。そして、いつもの帰り道。
ふと通りかかった公園のベンチを見てあることに気付く。3日前だったかにも同じように買い物帰りに僕はここにいた。そして、その時もベンチをみかけたのだが、ベンチの上にあったあるものが無くなっていた。空き缶が無くなっていたのだ。
"無くなっていた"
・・・違う。勝手に無くなるなんて現象は令和の時代には誰も認めやしない。
間違いなく、誰かが片付けてくれたから、そこに無い。
僕はこの無くなった空き缶に気付けたことで、心がポッとした。なんだろう。すごく幸せな気持ちだ。
何を今更と言われるかもしれないが、僕から見える景色の多くは誰かによって作られているんだなって気付いた。
僕の日常が日常と呼べるのも、当たり前のように便利に溢れた街並みも、全ては誰かの優しさで出来ている。優しさの定義をここで議論はしたくないが、それが労働の対価であろうと無意識下であろうと社会があるからこそそれは発生しているのだから、優しさだと僕は思う。
今当たり前に触っているスマホのアプリやサイトの向こう側にも、その秩序を守るべき誰かがいる。だからこそ、僕は便利を感じ、楽しみを味わえている。
言語化に困った僕が絞り出す表現は「ありがとう」だった。
そう。なんて「有り難い」んだろう。
幸せの多くはただただ見過ごしているものに気付くことなのかもしれない。無意識に当たり前としているものこそが、有り難いものと言えるのだと思う。
そう思うとご飯をいつもより噛み締める自分がいるし、するといつもより美味しいとすら感じる。
Amazonで注文した商品の宅配状況を見るだけでも、届くまでの過程を有り難く感じる自分がいる。
幸せは「築く」のではなく「気付く」こと。
「ありがとうメガネ」を掛けて世界を見るだけで、こんなにも心が豊かになれたのだ。
公園の空き缶ひとつで、どんな大層なことを書いてるんだと思うけど、書きたくなったのだ。そして、伝えたくなったのだ。
あなたにもぜひ「ありがとうメガネ」で世界を覗きこんで見て欲しい。
そして、その景色をシェアし合えたらなお嬉しい。
おわり。