「母を死なせても構わない」と同意した日の事
前提として
意思確認書、という名称が一般的に使われているかどうかは知らない。
そいつはいわゆる「もう手の施しようがない状態になった場合、延命処置を望むかどうか?」と確認する為の同意書だ。悪性リンパ腫を患った母もそれを事前に書いていた。
母は延命処置に関してはかなり否定的であったし、彼女の強い要望もあったので家族間で「そうなった時には覚悟をしよう」という話で事前に決まっていた。
ところで、この同意書。全ての病院がそうなのかは知らないが、母の入院していた病院では家族が記入する物も存在していた。つまりは母が急に意識を失って戻る可能性がない場合などに関して、家族の同意もまた、必要であったのだ。
そこには二人分書く為のスペースがあった。そしてそのスペースを埋める「意思決定者」は事前に母によって選定される。当時、母は父と離婚しており、子供は嫁に行った姉と僕の二人だけだった。その代わりに彼女には「内縁の夫」がいた。
彼は大変に良い人物であり、僕に対しても姉に対しても実子の様に接してくれる人物であった。内縁関係という事もあり、当時の我が家は母、彼(以下、義父と称す)と僕の三人暮らしをしていたほどであった。
と言うわけで、話を戻すが「家族用の同意書」の「意思決定者」として事前に母に選ばれていたのは、実子の姉と僕では無かった。母が選んだ『自分の最期を決める人間』は姉と義父であった。
その話を聞いた時にはとてもショックだったのを覚えている。「僕ではないのか」と思った。けれどすぐに忘れた。母が死ぬような事は無いと思っていたからだ。そんな書類にサインをする機会など訪れないと思っていた。
母が悪性リンパ腫の治療のために入院したのが2011年の12月の事であった。
最短で片道二時間の通勤電車
その頃、僕は新卒で入社した小さなシステム屋でエンジニアをしていた。下請け、孫請けによくある、客先常駐をするタイプのエンジニアだった。
その会社は規模としては30名強の社員を抱えたよくある会社であった。一つ違う事と言えば、とあるメーカー(以下、A社)との繋がりが強く、本来ならば間にSIerが数社入ってから受けるような案件を直接任される程度には信頼を置かれていた事だろう。
母が入院した直後に大口の顧客からの案件が入った。それは今まで当時の会社で請け負ってきたA社とは違う顧客からの案件であった。しかし、A社が作成、運用しているシステムをマルっと改修して自社のシステム部門で持ちたいという思惑があったようだった。つまり、A社のシステムに詳しい僕達はその移行に適役だと白羽の矢が刺さったらしい。
ただし、その客先はえらく遠かった。
僕の自宅から片道で二時間ちょっと。母の入院する予定の病院へは二時間半はかかる場所だった。
当時の家庭環境は、僕が母と義父と同居をしていた。姉はかなり近所に住んでいたものの、幼稚園児の姪がいた。連絡は姉に向けて一番に来るが、その後の対処をするのは大体が僕の仕事だった。
そもそも、姉には病院に対してどう対処すれば良いのかというノウハウが無かった。姉が主治医の話を聞いてきても、結局少しも分からないまま「何か抗がん剤的な物を使うらしい…」という程度で帰ってきてしまう。
その様な状態の為、母の容態に急変があった場合、真っ先に動くべきは自分だという自負があった。母もそれが分かっていたのか「何かあったら頼む」と何度も言われていた。
例えば、その客先がもう少し近ければ何の問題も無かっただろうし、大規模なシステムの改修と新規作成、移行というどう考えても忙しくなりそうな、悪い言い方をすれば炎上確定な案件でなければ上長に「その現場に行ってくれ」と言われた時に快く行ったであろう。
しかしながら僕にはそれが出来なかった。仕事と家庭ならば、僕は断然に家庭が大事であった。
幸いにも部長、そして社長は僕の母が悪性リンパ腫で入院し、また、父親がいない事、姉が既に嫁に行っている事を理解してくれていたので無理にとは言わなかった。多分、人情という意味ではこの会社はかなりホワイトである。
そうして僕は片道一時間の現場へと赴く事になったのである。
そこの職場はかなり流動的な勤務形態が許されており、例えばひと月の内に残業時間が発生していれば「仕事が無いなら今日はもう帰ってもいいよ」とその分早退させてもらえるような現場であった。
これはかなり看病に役立った。仕事の忙しい時には残業をし、波が引いたところで早退をして病院に見舞いに行く事が出来た。また、病院から「現状の治療経過を説明したい」などと言われても、平日の休みを残業、もしくは休日出勤で穴埋めできた。
そのおかげか、この現場にいる時の僕はかなり精神的に楽な状態で母の看病に当たれたのである。
しかし、それは長くは続かなかった。
翌年5月末。母の抗がん剤治療も佳境というところで部長がすまなそうに僕の常駐先にやって来た。
「どうしても例の(片道二時間の)現場に行ってほしい…」
案の定、納期に間に合わなそうで人員が不足しているらしかった。現場に送り込まれた上長や後輩はかなりの残業を強いられているらしい。しかも、A社の作ったシステムという事で、こちらには経験と知識があると思い込んでいざ蓋を開けてみたところ、客先独自のカスタマイズが乱舞して到底今までの知識では読み取けない複雑怪奇なリレーションになっている、と。
どうしても、どうしてもと何回か頼み込まれた結果、僕は一つ条件を出した。
「母の病院から緊急の連絡が来る可能性が高いので、その場合に抜けても大丈夫なようならば…」
部長はすぐに現場を仕切るPMに連絡を取り、その条件を確認した上で大丈夫だと保証をしてくれた。
こうして僕は二時間ちょっとの場所にある地獄に送り込まれた。
実際、その現場は相当に地獄の様相を呈していたが、それは割愛する。あとからやって来た事である意味現場の状況を客観的に見る心の余裕を持っていた僕はPMに頼まれて全体の進捗管理を自身の仕事の片手間にやったり、或いは手が回らなくなっている先輩の単体テストを代わりに引き受けて『ソースコードを見てしまった』。
これらの行動が僕の地獄を決定づける事を、その時の僕は知らない。
母の容態はというと、6月の中旬に「超強力な抗がん剤を投与して全身のリンパ球やら白血球やらを全部殺して、前々から採っておいた自分の幹細胞を脊髄に移植する」という「造血幹細胞移植」という治療を行い、その後移植した幹細胞から無事正常な血液が作られる状態に回復した。
しかし体力はかなり削られてしまい、退院後もしばらくは付きっ切りかそれに近い介護が必要だと思われた。しかし、それでも目標値まで血液中の血球が回復した母は7月中には退院をした。
しかし、8月下旬になって容体は急変する。ある日、目が見えにくいと言い始めたのだ。嫌な予感を覚えつつ病院へ受診する為に休みを取り、主治医の話を聞くと思った通りに再発。更に全身に転移し、その腫瘍は脳をも冒していた。
「脳をやられてしまっては、もう手遅れです」
その時の絶望感を、今でもまざまざと思い出す。
その日のうちに母は再入院となり、そうしてその日以降、家に帰る事は出来なかった。
「いい加減に迷惑をかけないでくれる?」
それからは平日は残業を含めて働き、帰るのは常に12時過ぎ。土日は母の病院へ見舞いに行く日々であった。平日の昼間には自営業をしている義父が見舞いに訪れてくれていた。土曜日は僕が単身で見舞いに行き、その代わりに日曜日は僕と姉の日であった。と言っても姉は姪がおり、彼女は幼稚園児なので病棟には入れないために30分毎に交代して姪の面倒を見つつ見舞いをしていた。
母は日に日にやつれていくのが分かった。痛み止めとして麻薬を投与されているので見舞いに訪れてもほぼ喋る事が出来ず、幻覚を見て、常にうつらうつらとしていた。思えばこの時期が一番容態が悪かったのかもしれない。
そうなると病院からの呼び出しもかなり頻回になった。今後の治療方針、容態からみた余命……病院で主治医と話す事は腐るほどにあった。
一方で仕事も佳境に入ってきた。全ての機能の単体テストが終わったので、総合テストを行うことになったのだ。これが地獄の釜が開いた瞬間である。それまで自分に割り振られた機能でいっぱいいっぱいだったPMたちには総合テストの仕様書を作る事もスケジュールを組む事も出来なくなっていた。
唯一それが出来る立ち位置に立ってしまっていたのが、僕であった。
仕様書を作り、作ったのだから総合テストの指揮はお前に任せるとPMに言われた10月の初め。その日の午前中に姉から連絡が来た。
『病院が今すぐに家族みんな来て欲しいって』
それまでも幾度か同じ内容で病院からの呼び出しを受けて、その都度主治医との面談で終わっていた僕は、それでも『今すぐ』という言葉に嫌な物を感じた。そうしてすぐにPMにその旨を伝えた。
PMは僕の言葉に溜め息をつくと「ちょっとこっち来て」と言って僕を部屋の隅に連れて行った。彼女―――PMは女性だったのだが、彼女は呆れ果てたように言い放った。
「いい加減に迷惑をかけないでくれる?」
は?迷惑?迷惑とは何だ?
困惑する僕を尻目に彼女は続けた。
「みんな家庭を顧みずやってるの分かってる?それに何のために総合テストの指揮を任せたと思ってるの?今あなたが抜けたらどうなるか、分かってるよね?」
僕は頭が真っ白になった。それから帰ってもいいとも悪いとも言わずに、PMはサブマネージャーを連れて部屋を出ていった。
そうして10分ほどたった後に僕は別の階にある喫煙室に呼ばれて二人に睨まれていた。
「今ここで会社を辞めるか、病院に行くのを全てお姉さんに任せるか決めて」
何故、僕はその二者択一をしなければならないんだろう?
僕は初めから言っていたのである。「母が闘病中で病院に頻回呼ばれる可能性だってある」とそして「そうなった場合は快く早退して貰って構わない」と約束を取り付けていたのである。どちらも選べるはずがない。僕が仕事を辞めれば誰が母の治療費を払うのだ。誰が生活費を稼ぐのだ。姉に病院の一切を任せるという事は、母が危篤になったとしても僕は病院に行けないのだ。母の死に目にあうな、目の前の上長は言っていた。
選ぶ事など、出来る筈もなかった。
「出来ないなら、休職でもいい。とにかく、どっちつかずでいられるだけで迷惑なんだ」
サブマネージャーが言う。何を言ってるんだ、この人達は。もう何を言われているのか僕には分からなかった。
とにかくその日だけは病院に行かせて「あげる」と言われて帰された電車の中で、僕は泣いた。悲しい、つらい、くやしい。全ての思いが胸を締め付けて肺をいっぱいにする。
だって、最初に言ったじゃないか。約束したじゃないか。自分達だけで仕事が回らなくなったのは僕のせいではないじゃないか。
今ならばなんとでも反論が出来たが、生憎とその時の僕の脳と肺は悲哀に満ちて声も思考も奪っていた。
独りで告げられた危篤
電車を乗り継いでいる間に姉から連絡があった。
「ごめん、姪っ子がお腹痛いっていうから家に帰る」
バスに乗り継いだ時に義父から連絡が来た。
「今まで付き添っていたけど、帰る」
結局、主治医と面談室で向かい合った「家族」は僕だけだった。彼は「他の方は?」と困惑していたが、事情を説明すると話を切り出した。
「今日の晩が山でしょう」
ドラマでよく聞く台詞だった。つまりは母は今危篤状態、と言う奴だったのだ。「もし親族の方がいるのならば早めに連絡を」という主治医の言葉を飲み込んだ僕の前に、彼は一枚の書類を差し出した。
それは前述の「家族による延命処置中断の同意書」であった。
「ご本人からは事前に意思確認書を頂いておりますが、ご家族の同意書も必要なんです。ご本人は延命処置は望まれていない様なのですが、ご家族としてはどうですか?」
それは『僕が背負う必要がないはずの重苦』だった。
僕の口はすんなりと「ええ、きいてます。不要な延命処置はしないで下さい」と紡いでいた。そうして差し出されたボールペンで、同意書に署名をした。
僕が、書くはずの無かった書類。そこに、僕の名前が載った。
「僕は今、母を死なせてくれと頼んだんだ」
じっとりとそんな意識が脳から溢れ出ていった。こんなもの、もう二度と書く事などしたくないと心底思った。
帰りのバスの中で姉と義父に「詳しい話は家に帰ってからする」と伝えた。幸いにも週末、金曜日の出来事だったので、仕事に関しては後で考えるという余裕が出来た。
姉と義父はそこまで深刻な急変ではないと思っていたようで、帰宅後に酷く慌ただしくなった。仕事着から私服に着替えた僕は、数時間ぶりの病院に向けて姉の車に乗り込んだ。
結末
結局のところ、母はその時の山は無事に持ちなおす事が出来た。仕事の方は心配した総務から電話がかかって来て、介護休職の制度がある事を聞き、それを利用した。
それからのひと月間、比較的母は意思の疎通も出来る様になり、僕はそれなりの最期を看取れた、と思いたい。
然しながら、この10月の初め、僕が「母を殺しても構わない」と同意したその日の出来事だけはどうしてもどうしても、心に刺さりっぱなしだ。
結果的に、僕は母を無くして7年経つが、いまだにその死を乗り越えられずにいる。ガンという文字を見ただけで血の気が引く。悪性リンパ腫なんて文字を見た日には倒れそうになる。
もしも、の話になってしまうが。あの日。同意書に署名をした時に義父か姉のどちらかが居てくれたならば違うのだろうかと少し考えてみることがある。
答えなんて、そこにはありもしない。