一億総アイドル時代
僕がまだ社会学を学ぶ学生だった頃の事である。
その頃は情報化社会を議論する際に「インターネットの登場によって一億総マスコミ時代が来る」という認識があった。インターネットを通じて個人が情報を不特定多数の人に発信できる時代が来たのだ、という事だ。
マスコミュニケーション効果について論文をしたためた事があるので、マスコミュニケーションの変遷とインターネットの登場による発信者と受信者の関係性についてはわりあい理解していた方であると思う。その上で、やはり当時のゼミ仲間達と情報化社会の話になれば、不文律の様に「一億総マスコミ時代」の認識を共有していたと思う。
しかし、情報化社会の発展は大学生だった自分の予想をはるかに超えていった。
大学生の事なので、勿論SNSは其処まで普及していなかった。Facebookが台頭し始めた頃の時代であり、また、Facebookも『実名登録制』であったが為にある意味でネット独自のコミュニケーションツールと言うよりも、実生活に根付いたコミュニケーションツールであると言えた。Twitterはまだまだ黎明期であり、pixivも多分複数枚投稿が始まっていなかった頃の事だったように思う。(申し訳ないが僕は創作系オタクなのでちょいちょいpixivの話とか出て来ます)
ブログも確かに普及はしていた物の、注目を浴びているのは例えば著名人のブログであったり、2ちゃんねる系のまとめブログであったり、あとは本当にごく限られた人々がブロガーとして注目を受けていた。
今ふと思い返してみれば、その頃はmixiが流行っていたように思うが、残念ながら僕はmixiを触ってはいないため、そちらの事情は良く分からない。けれども、mixiは招待会員制であって、招待されて登録されなければブログを見る事が出来なかった(様な気がしている…見れたっけ?)ので、あくまでもクローズドなコミュニティである。
ところがこの流れが今は変わってきていると思う。
切欠が何になるのかは詳しく分析をしているわけでも調査をしているわけでもないので特定を出来るレベルではないのだが、肌で感じている感覚としては「ニコニコ生放送」あたりからではないかな、とは思っている。ニコ生が始まった事によって、一般人が自分の私生活を簡単にネットで配信する事が出来るようになった。それに伴ってと言うべきか、それ以前からのムーブメントとして、ボカロPの存在、歌い手、踊ってみたなど、いわゆるアマチュアが自分のスキルをネット上に発信する事が出来るようになっていった。
そうして訪れたのが「一億総マスコミ時代」を通り越した「一億総アイドル時代」である。
それまでは色々な事情でもってプロにならなかった実力のあるアマチュアが、そのスキルをネット上で遺憾なく発揮する事が出来るようになったことからそれに続く後進がどんどんネット社会に増えていった。
もちろん、創作に関してだけではない。政治的な思想、社会に対する考察、人に承認されたいという欲求。全てをネット社会は受け入れた。
ネット社会の住民たちは、自分の好きな事や考えをネットで発信する事を覚えた。その結果、何が起きたかと言えば、一個人の偶像化であると僕は思う。
例えば、ここにとても絵の上手い人がいるとする。
その人物はpixivではランキング常連、息抜きに描いた絵をツイッターに載せればすぐにRTといいねが沢山つく。多くの人がその人物のファンになり、Twitterをフォローしてその人物の絵を心待ちにし始める。
しかし、その人物は「一般人」であって「プロのイラストレーター」ではない。絵ばかりを描いて生活をしているわけでもない。その人物にはその人物なりの生活があり、娯楽が多数にあり、その中の一つが絵を描く事であるにすぎない。ある時には仕事の愚痴を言うかもしれない。ある時には友人と遊びに行くこともあるかもしれない。ある時には新作のゲームに心を躍らせる事もあるだろうし、将来の人生設計に頭を悩ませているかもしれない。
けれども、その人物の「絵を描くスキル」だけに魅せられた人にとって見れば、その人が普通に生活をしている事は「分かっているつもり」の事である。
だから、あるファンの中には「映画に行く暇があるならば絵を沢山描いて欲しい」と思う者もいるし「自分の為にこういう絵を描いて欲しい」と思う極端な人もいるのが現実である。
また、作品を通じてその人物を知ったはいいものの、実際の作者の性格などに落胆した、という人もいる。
僕からすればそんなものは自分が勝手にその人物に対して「こういう人物であるべき」という妄想を押し付けて期待しているだけで、裏切られた等と思う方が誤りであると思う。
最早、ネット社会において一つ発言をしただけで、受け取り手に———そのレベルはどうであれ———偶像(アイドル)として、自分ではない人格を押し付けられる時代になっている。そう僕は思っている。
自然体のままネット社会で生きて行く事は最早危険な行為でしかない。何故ならば、自然体で生きていると思っていても、その相手はそうは思っていないからだ。自分の人格とは違う人格を相手は勝手に自分に与えてくる。そしてその与えられた人格の通りに発言する事を期待される。
一旦、その期待された人格から逸脱すれば、その期待されていた分だけそのままそっくり身勝手な落胆を勝手に覚えられて勝手に「逸脱者」として晒しあげられていく。
SNSの発展を機に「つながりの社会性」がより顕著になった昨今。
まるで著名人たちが週刊誌やワイドショーでスキャンダラスに報道される様に、様々な一般人が「一億人のマスコミ」の手によって「炎上」という形でスキャンダルの主役にされている。
確かに炎上をした人物の殆どが、一般常識を酷く欠いていた事実は否めないが、それが個人情報の特定まで行けば、最早、燃やすこと自体を楽しみたいのではないかとさえ思ってしまう。
あるいはデマによって無辜の人々にまで火の粉を振りかけて燃やし尽くし、過ちであったと分かった途端に振り上げた拳を隠して逃げていく様を幾度となく見てきた。
過度の偶像化とそれにより発生する実在との差異。ネット社会においては、誰もがマスコミであって誰もがアイドル。今日もどこかで誰かがスキャンダルをスクープしようと狙っているかもしれない。