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何をもって幸せとするのか
「幸せ」の定義は人それぞれで、「嬉しい」や「楽しい」を感じるのも、人によってそれぞれだ。
衣食住が揃っていれば十分な人もいれば、衣食住+趣味の充実が必要な人もいる。そもそも後者の場合は衣食住が揃っているのは当たり前のことで、それ以上の何かがなければ幸福を感じることはない。
中には「愛さえあれば」という人もいるだろう。事実、金銭的には裕福であっても家族のつながりは薄いために寂しさを感じる人もいる。金銭的にどうであれ、誰かと笑いあうことで心が満たされる場合もある。
では、自身はどうなのだろう。
そもそもこんなことを書き始めたのは、私自身が生活に支障が出る程度の身体状態に陥ったからだ。
片足が思うように動かせず、痛みを堪えながら足を庇ってヒョコヒョコと歩かなければならない。椎間板ヘルニアと診断された時は、一瞬頭が真っ白になった。すでに他界した父が、同じ診断名で左半身不随になったのは58歳の時だったからだ。その後の生活ぶりも間近で見てきた。
私は当時の父より10歳程若く、その歳で発症してしまったことに少なくない衝撃を受けた。
リハビリで症状の改善はのぞめるものの、正常な状態に戻ることはない。これからの次第で痛みがほぼなくなったとしても、これから老いていくこの体はいつまで自分の足で歩いて過ごすことが出来るのだろうかと、不安でいっぱいになった。
私の状態を聞いた家族から「お前の車椅子ひかなかんくなるのか」と言われた時に、そういえば私の旦那様は面倒なことを極端に嫌う人間だったことを思い出した。旦那様にとって「車椅子の私と行動する」ことはとても面倒なことだ。
一年前、私が足を骨折した際に、週に一度買い物に一緒に出たが、その時の旦那様は本当に面倒くさそうにしていて、三度目はひとりで行くと言い出した。骨折していようがなんだろうが、家族の食事を作るのは私なので出来れば連れて行ってほしかったが、断固として却下された記憶が鮮明に残っている。おそらく旦那様もその時のことを思い出したに違いない。
彼に負担をかけることは私の本意とは大きく外れることなので、申し訳なく思うところはあるものの、私は大きな違和感をおぼえた。
現状でも歩行にやや難はあるものの、仕事や家事が滞るようなことはしていないし、旦那様や子どもたちの生活スタイルを変えるようなことはしてない。ただ、将来的な不安があるだけだ。
その将来的な不安を旦那様は車椅子の話で表したのだろけれど、いやいや、どうにも嫌な顔をされたことに不快感しかない。口では心配だからと言いながら、サクッと私を責めてるよね、と思ってしまった。
そこで冒頭の話に戻るわけである。
幸せの定義に「もの」や「金銭」を置いていれば、いつか手に入らなくなったり失うこともあるだろう。「健康」が定義であれば、老いて死ぬまで継続するのは不可能な話だ。
これまでの私の幸せの定義は「家族の笑顔」で、旦那様や子どもたちの生活を支えることが私の幸せだった。では、支えることが出来なくなり、逆に支えられるようになってしまうと、それは不幸なのかと。
これからくる老いによる不調は、今回の症状に限ったことではないし、そこでもやることは「できることをやる」だけで、家族の笑顔を見たいという私の欲求を満たすための努力はできる。そうやって行動した結果、そこの「家族の笑顔」があるかどうかはわからないけれど、私は後悔しないで生きることができるのだから、幸せなのだ思う。
けれど旦那様の幸せの定義は私とは違う。そもそも根本的な考え方や感性が同調したことは皆無な夫婦なので、私と同じようにはならない。きっと私の介助をしなければならないとなれば、彼にとっては不愉快極まりない事態なのだろうと思う。
旦那様の笑顔が私の幸せではあるけれど、今の状態では彼を笑顔にすることはできなさそうだ。
ともあれ、今はリハビリにて身体の状態を少しでも元に近づけることが優先なので、旦那様の幸福感について考えるのは、もう少し先にしよう。
何をもって幸せとするのか
決めるのは誰もが自分自身なのだから