登校日数13日

この記事では僕の中学生の頃の話について書いていこうと思う。

まず僕はほとんど中学校に通っていなかった。始まりの入学式にすら参加していなかったし、満足に丸一日中学校にいたことがなかった。

3年間の合計の出席日数は13日とか14日くらいだったはずで、全ての出席において遅刻と早退をしていたから、中学校にいた時間を合計しても10時間にも及ばない。

だから自分の教室がどこにあるかも知らなかったし、自分のクラスが何組なのかも知らない。中学校では1年F組や1年1組などのように、クラスの表記がアルファベットか数字かで分かれることを、ドラマなどをみて何となく知っているが、僕の中学がどのようなクラス表記を使っていたかさえ覚えがない。

それほどまでに僕の中学校生活の経験は乏しいのだ。

小学校の頃は不登校だったものの、放課後に友達と遊ぶことはよくあった。友達が僕の家へと来て一緒にゲームをするような生活を送っていた。

しかし中学校からは事情は違った。中学生になれば自我が芽生え、部活で忙しくなり新しい人との出会いがあり、人間関係が大きく変わる。人間関係が大きく変わっていく過程から外れ、学校へは通わず家に引きこもっていた僕の人間関係は次第に薄れていき、いつしか僕は完全な引きこもりへと変化していた。

学校へ行く訳でもなければ、友達と遊ぶことも一切ない。僕の靴は玄関から消え、通学をする為のカバンは押し入れへで荷物の下敷きとなっていた。

そんな僕の引きこもり生活を彩ったのはインターネット。中学校3年間はずっとパソコンに張り付いき、パソコンの画面と常ににらめっこをしていた。

しかしSNSの類は使っておらず、2chのような掲示板も使ってはいなかった。当時でもdiscordのような通話サービスはあり、現にSkypeのアカウントを持っていたが、あまり使うことはなかった。

つまりリアルでもネットでも人間と関わることなく、真の引きこもりを極めた中学3年間だったと言える。


ニコニコ生放送

そんな僕が時間を注いでいたのは、ニコニコ生放送の視聴だった。今でこそyoutubeライブやTwitchなどに代表されるように、多数のライブストリーミングサービスが存在しており、そこには多数の視聴者が集まるが、僕が中学生だった頃は生配信というのは差程人気のないコンテンツだった。

海外のサービスを含めると生放送サービスはジャスティンやユーストリームなどがあったが、実際に日本で使われているライブ配信サイトといえばニコニコ生放送が一強だった。

当時のニコニコ生放送は最大視聴者数制限というものがあり、一つの生放送を見れる人数には限りがあった。サーバの負荷を軽減する為の制限だったのだと思う。ちなみにもしかしたら今もその制限は残っているかもしれない。

視聴者数制限は最大で2000人であり、同時視聴者数が2000人を超えると、無料会員の人間は放送を見れなくなってしまう。プレミアム会員の人間に席を奪われてしまうのだ。

2000人がプレミアム会員で埋まってしまえば、もう無料会員であろうとプレミアム会員であろうとその生放送を視聴することが出来ない。

といっても2009年当時、2000人がプレミアム会員で埋まる放送などごく僅かであり、その視聴者数制限でサービスの運営が回る程、ライブストリーミングというコンテンツはまだまだ発展途上のサービスだったのだ。

僕は10歳の頃からニコニコ動画を使っていたが、そんな僕でさえニコニコ生放送を初めて使ったのは13歳の時。

生放送を見たきっかけは、僕が追っていたゲーム実況の動画主が、ゲームクリアを目前に精神が壊れてしまったこと。仕事に終われ結婚を考えていた彼女に浮気された後に振られ、40本以上投稿していた動画を削除。

ゲームクリアを見ることが出来ずに残念だなと思っていたところ、その動画投稿主がニコニコ生放送でゲームクリアを目指して生放送をすることが分かった。それが僕がニコニコ生放送を知ったきっかけだ。

動画を消したことがきっかけになったのか、その動画投稿者は活動の軸をニコニコ動画からニコニコ生放送へと移した(動画を消す前からジャスティンという配信サイトで配信を行ってはいた)。しかし、この動画投稿者精神が病むとすぐにコミュニティを消すというメンヘラ精神の持ち主だった。

コミュニティというのはyoutubeでいうところのチャンネルのことだ。せっかくコミュニティ人数が増えても、すぐにコミュニティを爆破してしまう。

そしてメンヘラが回復したり、時間に余裕が出来ると、ふとコミュニティを作成して戻ってくる人だった。

最初はその人の放送くらいしかあまり見てはいなかったものの、その人がコミュニティを爆破すると見る放送がなくなり、今度は違う放送を探すようになっていた。

動画とは違って生放送は放送者の素や毒を見て感じることができ、コメントをするとレスポンスが返ってくる。

ゴリゴリに声を作っている大学生の女の子。妹と二人で一緒に暮らしていたが、自身が夜配信を行う声が隣人にまで届き、隣人が苦情を言いに来た。インターホンに出て対応を行ったのは妹。困った妹は泣きながら母親に電話。妹は携帯を姉に渡し、母親から叱られる配信者の姉。突然の出来事に混乱していたのか配信を切り忘れ、妹の泣く声や母親が怒っている様子、自身の地声が生放送上で流れてしまった。

編集なしでダイレクトに届いてしまう生放送ならではの事故だった。

※0~30秒、9分~10分

また、とち狂った配信者が友達に会いに行くと、オウム真理教(現アーレフ)の施設に深夜に入り込み宗教施設内部を様子を生放送で流し、オウム真理教側が警察に通報。かけつて来た警察官と喧嘩をし始める配信者。

大人同士が感情を理性で抑えようとしながらも、それでも抑えられなかった感情があらわになる会話は刺激的でスパイシーだった。

ニコニコ生放送で布教活動を行うキリスト教の牧師。生放送で牧師は聖書の意味と説いたり、宗教的な儀式を行う様子を配信したりと、その内容はごく真面目なものであったが、見に来るのは幼稚な人間ばかり。

しかし牧師は寛容な心の持ち主なのか、コメントをNGに追加することは一切なかった。ニコニコ生放送はニコニコ動画と同じように、コメントが画面に流れる。しかもそのコメントは色をつけることが出来たり、数秒の間固定するこが出来たり、文字を大きくしたりすることが出来る。主張の激しい誹謗中傷が彩る生放送はカオスを極めていた。

動画とは異質な空間に僕は魅力を感じて、生放送という文化を知ってしばらくすると、僕は生放送にのめりこむようになっていた。

だから中学生の時に何をしていたのかと聞かれると、ニコ生を見ていたと答えることになる。

生活習慣

生活リズムというのは何だか僕が家の中で踊ってるみたいに思えるから、あまり好きな表現ではない。

そんな僕の生活習慣は中学生になってから変化した。元来、人間の体内時計というのは24時間ではなく24時間半程度といわれている。寝たい時に寝て起きたい時に起きるような生活を続けていくと、毎日起きる時間が30分変化していくのだ。

昨日起きたのは6時、今日起きたのは6時半、明日起きるのは7時といった具合だ。

小学生の時は不登校ながらもたまに学校に行ったり、放課後友達と遊んだりしていたことから、ある程度規則がある生活習慣というものがあったものの、中学生になってからはあらゆる人間関係が消滅。それに伴って生活習慣も変化。

寝たい時に寝て、好きなだけ寝て、起きたい時に起きる。予定がないから生活習慣を気にする必要がない。早朝に起きることもあれば、正午に起きることもあれば、深夜に起きることもある。こうして僕の中から生活習慣というものが消えた。

一人でご飯を食べるのが極端に多くなったのはこの頃からである。夕方の3時や深夜の2時に起きて朝食を食べるのだ。冷蔵庫を開いて適当にあるものを調理して適当に食べる。深夜に暗い台所で冷蔵庫をもぞもぞと探る姿はまるで熊のようだったに違いない。

寝たい時に寝て、起きたい時に起きる予定のない生活はとても快適だった。まだ真面目に学校に通っていた頃は日曜日の夜になると憂鬱な気持ちになり明日が来ないでほしいと願うばかりであったが、引きこもりニート生活において明日の予定はない。

社会人や忙しい学生は今日寝たら嫌な明日がやってくるという明日を恐れながら寝るという感覚があると思う。社会というグループから外れて引きこもりという生活を選んだ僕はその苦悩から逃れ、いつも快適な睡眠ができた。

夜遅くまで起きてしまい今日はもう3時間しか寝れない、眠い中頑張らなければいけない。社会人や忙しい学生にはそういうことが時たまあるとは思うが、僕は寝たい時寝たい分だけ寝ていたから、引きこもり生活によってそういった苦痛からも解放された。

訪問

時たま家に中学の担任の先生が訪問してくるがあった。矢野先生という先生が僕の1年生の時の担任の先生だった。矢野先生の年齢は40を過ぎていたが年齢が40を過ぎて初めて教員となった先生だった。もともとは通訳の仕事をしていたそうだが通訳の仕事では妻と新しくできた娘を養うことができず給料の問題で仕方なく先生になったと語っていた。

積極的な理由で教員となったわけではないことから、矢野先生は多くの問題を抱えている先生だったそうだ。僕は学校に通っていなかったから矢野先生がどんな問題を起こしたのかを直接は見ていない。しかし一つ上の兄から矢野先生の話をよく聞いていた。

矢野先生は生徒にムカつくとすぐに生徒に対して手を出す先生だったそうだ。それも殴るや蹴るではなく生徒の首を両手で締め上げるような暴力を振るっていたそうだ。酷い時は食べ物にあたることもありその日の給食を蹴飛ばしたことがあるそうだ。

給食を失った生徒たちは給食を分けてもらう為に、各クラスを回り、そのクラスの残った給食から自分たちの糧を得たそう。

そんな矢野先生は僕が中学2年生になった時に他の中学に飛ばされ、また矢野先生は僕の様子を見に家に来ることがほとんどなかったから、実は矢野先生と会話をしたことはほとんどない。

僕の一つ上の兄の方が家の先生と行った会話量は多いかもしれないくらいだ。

僕の中学2年生と3年生の時に担任の先生となった渡辺先生も新任の教員だった。矢野先生とは違って年齢が若くまだ大学を卒業したばかりで23だとか24くらいの年齢だったと思う。また僕は小学校6年生と中学校の担任の先生が3人とも新任の教師だった。

渡辺先生は矢野先生とは違って僕の家に頻繁に訪れて、その回数は月に一回とかそれくらいだったと思う。渡辺先生は僕のことを2年生と3年生の時に担当した先生で、先生が僕の家を訪れた回数はおよそ24回ほどである。

それに反してもしかすると学校で渡辺先生と出会ったのは1度か2度ぐらいかもしれない。

渡辺先生は教員になった頃にはもうすでに結婚しており、妻の実家に住んでいた。サザエさんで言うところのマスオさん状態である。婿養子として結婚したかどうかまでは覚えていないがとにかく妻の実家に住んでいた。

教員としての仕事は忙しいだろうし家に帰っても妻の親がいるような環境では安らぐこともできないだろう。先生がどこからエネルギーを得ているのが不思議だった。

矢野先生が僕の家を訪れることなんて滅多になかったのに、渡辺先生は頻繁に僕の家を訪れていた。矢野先生とは教員としての志が違ったのだろう。

渡辺先生とはいろんな話をした。同級生の学校でお話、先生の奥さんも教員である話、格闘技の話、芸能界の話、週刊少年ジャンプの話などなど先生とは色々な話をした。

渡辺先生は大学を卒業したばかりの若い先生ということあってか中学生の僕と話の内容が噛み合うことが多かった。

先にも書いたとおり僕は中学生の時には SNS の類や通話ソフトなどは使っておらず、人と話すことがめったになかったので先生が来た時にはよく話していた気がする。だから先生が家に来る時間というのは僕にとってとても楽しい時間だった。

普通に学校に通っていれば先生と雑談のような会話をすることはあまりないだろうから、先生が僕の家に訪れて僕と話す時間は特別だったといえるだろう。

それから月に1回ほど教育委員会の人が僕の家に訪れていた。その女性は40代の女性で不登校の子どもの様子を見に来るのが仕事だったそうだ。また児童相談所の人も何度か僕の家に来ることがあった。

教育委員会の人や児童相談所の人は生真面目な人ばかりで、その人達との会話は退屈で、僕は会話の席には参加していたもののテーブルの上にコミックを積み上げ、その時間はずっと漫画を読んでいた。その人達と話すのはいつも母親だった。

印象的だったのは、僕の母親は怒るとすぐに皿を投げて割るという話をした時、教育委員会の女性も私も家では怒るとすぐに皿を割ると話していたことだった。僕は凄まじいババアだなと心の中で呟いた。

思い返すと中学生の頃僕は怒り狂って家にある仏壇を破壊したことがあった。トンカチで仏壇を破壊し、その後仏壇を家の庭に放り投げた。教育委員会の人をこいつは凄まじいババアだと感じたが、僕も大して変わらないか。

大震災

僕が中学生の時、東日本大震災が起きた。この時ばかりは余震を恐れて、一時的に外に避難した。

僕の家の周りには沢山の小学生が住んでおり、それは家にいても聞こえてくる小学生の声で知っていた。おそらく10人程度の小学生が住んでいた。

僕は小学生が周りに住んでいることを知っていたが、小学生は僕の存在を知らない。一時外へ避難した時、初めて小学生は僕の存在を知ることになる。

あまり人の視線を気にすることはないが、小学生達は遠慮なく僕のことをまじまじと見つめてくるものだから、小学生がどんな気持ちで僕を見ていたかは容易に想像がつく。

こいつは誰だ、どうして今まで見る機会がなかったのだ、そんな不思議な気持ちで僕という人間を観察していたに違いない。

また僕の家から2つ隣の家には僕を超える引きこもりが住んでいたそうだ。母がその家の主婦と近所付き合いがあり、そこから知った話だ。

どうやら高校を卒業してから一切働かずに20年近く部屋に引きこもっている男がいたそうだ。彼は東日本大震災の時も家から一切出ることはなく、きっと今もなお引きこもり続けているのだろう。

風呂

中学に入学してから引きこもりを極めた僕が、当然風呂に入る頻度も減っていった。多分中学3年間での風呂に入る頻度の平均は、5日に1回程度だったと思う。

なんとなく暇な時は二日に一回や毎日入ることがたまにあったが、ひどい時は2週間ほど入らないことがあった。

風呂に入らないのは夏場よりも冬場の方が実は臭いが辛い。というのも冬場毛布や掛け布団をかけながら寝る。動いていないとある程度密閉された空間に臭いが溜まり、僕が寝返りを打った時に溜まっていた臭いが解放され、濃度の高い臭いが僕の鼻を直撃する。

自分の臭さで起きてしまうことが何度かあった。夏場であれば何もかけずに寝ていたのでこういったことは起きようがない。だから僕は冬場の方が頻繁に風呂に入っていた。

また僕は長い間風呂に浸かっているとそこから立ち上がった時に、頭がふらついてバランスを崩してしまう。これが始まったのが中学生の頃であり、今もなお頭がふらつくのは続いている。一度風呂場で頭を打ったことがあり、それ以降長時間湯船に浸かるのを控えている。それは今も続いている。

終わり

仲間と分かち合った友情や、頬を赤らめた初恋、人生における初めての挫折、自我の誕生などなど中学校生活においては色々な経験があるはずだが、僕の中学校生活は色で例えるなら灰色。中学生の時をことを振り返って、文章を書いてみようと試みたものの大したエピソードがなかった。

こんな内容の記事では読んでもらった人に少し申し訳ない気持ちがあるが、せっかく書いたので記事をアップロードしようと思う。

これ以上中学校生活のことについて特に書くこともないので、この辺りで文章を終わろうと思う。

では今回はこの辺りで。

さて、次は何を書こうかな。

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