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漫才師・新山ノリローに聞く昭和演芸史

【漫才界のシーラカンス】新山ノリロー師匠は昭和11年生まれ、芸歴66年という恐るべき芸歴の持ち主。
当初はダンサーに憧れて虎ノ門舞踊学校、中川三郎タップダンススタジオに学んだが、昭和31年に漫才師・新山悦朗に師事。初舞台を踏む。
古くは砂川捨丸から、リーガル千太万吉、コロムビアトップライトなど、名だたる漫才師たちと舞台を共にし、自らも「NHK漫才コンクール優勝」、「漫才協会2代目真打」という輝かしい芸歴を持つレジェンド。
今回は、そんな新山ノリロー師匠から、栗友亭〜松竹演芸場〜浅草国際劇場〜日劇〜大正テレビ寄席まで、ボリューミーに昭和の演芸界のお話を伺った。
(記事および画像の無断転載、引用はご遠慮ください)

【追記】
新山ノリロー師匠は2022年12月19日、享年86歳で旅立たれました。ご冥福をお祈りします。

今は作詞家の他、漫談と「当て振り」でステージに立つ

木馬館でのデビューから栗友亭へ

(小針)今日は新山ノリロー師匠にデビューからのお話しを伺いたいんですが、デビューは何年ですか?
(師匠)木馬館でデビューしたのが昭和31年かな。2階のほうね。
当時は安来節やってたから、その間に漫才や奇術だとか色物がたまに入ってたわけだ。
(小針)じゃあ天野豆子とか美山たかねとか。
(師匠)そうそうそう!よく知ってんね。そこで初舞台の時に頭取が「仲日は?」ってお金を集めに来たんだよ、だから「まだいただいてません」って言ったら、「バカ、出す方だよ」って言われて。それから、仲乗りさんってあだ名になって(笑)
(小針)ハハハ!(笑)師匠が栗友亭に初めて立ったのが、昭和何年だったんですか?
(師匠)栗友は昭和33年ですよ。
コンビを組んで間がない時に台本持って漫才やったのは、ノリロートリローだけだって当時言われたよ(笑)大体、昭和31,2年に漫才になる奴ぁいないでしょう。
(小針)なんでですか?
(師匠)下に見られてた。ほとんどが「お祭り芸人」て言われたからね。だって昭和31,2年ったらテレビだってそんなに普及してる訳じゃないから、テレビにばっか写ってるって漫才いなかったなぁ。昭和40年越して、我々の時代になってからテレビブームだよね。
(小針)大正テレビ寄席。

立川談志もノリロートリローを慕った

(師匠)南千住といえば下町で小さい商店街があって、その商店街の一角に栗友亭はあったんだけどね。いわゆる俺らの漫研っていうのは、漫才研究会のことだけど、リーガル千太・万吉師匠が発足させたわけだ。その漫研の定席が栗友亭だった。だから、我々は漫才研究会の若手の第一期生。
(小針)栗友亭の頃って、やっぱり楽しかったですか?
(師匠)金はなかったけど、楽しかったのは栗友亭の頃ですよ。荒川遊園地のそばに新山悦郎・艶子師匠が住んでて、俺らは住み込みの弟子だった訳だ。
20円くらいもらってかな、都電に乗って三ノ輪で降りて、そこから栗友亭までとぼとぼ歩いて。そういう時代だからね。
(小針)栗友亭って楽屋にお弁当とかなかったんですか?(笑)
(師匠)ない、ない、ない。だけど師匠の家に住み込んでたから食うのは心配ない。
(小針)栗友亭って、何時からなんですか?
(師匠)6時頃から。だから昼間は師匠のカバン持ちして、それで帰って来ると夜に栗友亭にいくわけ。そして、大体2時間くらいやるのかな、なにしろお客が2、3人くらいしか入らないんですよ。だから、やりにくいことはやりにくいよね。勉強になるっちゃなるのかもしんないけど、どんなもんかねぇ(笑)
(小針)時間的にどのくらいのネタをやったんですか?
(師匠)大体15分くらいやってたかな。

栗友亭に出演していた漫才師たち

(小針)当時の栗友亭には、どんな方が出てらしたんですか?
(師匠)同期だったのが一休・三休(※三休=後の春日三球)。リーガル千太万吉の弟子なんだけど、入門して間もないからリーガルって名前がもらえないんだよ。それで栗友亭からもらって、クリトモ一休・三休っていったんだ。だから、リーガル天才・秀才の弟弟子になるんだけどね。
(小針)一休さんていうと三河島事故でしたね…。
(師匠)そうだねぇ、(春日)三球さんは三河島事故で相棒を亡くして、だいぶ苦労したもんね。それが美人の照代さんと一緒になってから寄席入って、それで例の地下鉄でね。
(小針)地下鉄漫才(笑)あと、大空はるか・かなたさんもいらっしゃいましたよね。
(師匠)そう、ケーシー高峰とあきおさんね。はるか・かなたさんも僕らより少し先輩。だからケーシー高峰さんなんかは、なかなかコンビが上手くいかなかったんだよね。
あと春日淳子・照代。それから、桂子・好江っていったら、格が全然上だったからね。
(小針)そうですか。あと、古い資料をみたら、銀座ネオン・サインさんて名前があったんですけど。
(師匠)あ、その頃、銀座ネオン・サインっていうのは看板ですよ。
てんや・わんやさんと同世代だったかな。
(小針)じゃあ、木田鶴夫・亀夫さんなんかとも同じ世代なんですかね?
(師匠)同世代。ちょこっと話題になったんだよ、名前がいいよね。銀座ネオン・サインだなんて。
(小針)洒落てますよね。
(師匠)その後、松竹演芸場に僕らが出てる時にも、しばらく出てたよね。ネオン・サインは。一緒に舞台立ってましたよ

新山ノリロートリローの若手時代

(小針)直井オサム・ミツルさんとかも栗友亭に出てましたか?
(師匠)そうそう、どっちかというと後半の方ね。
あと大空なんだ・かんだね、(大空)ヒット先生の弟子でカバン持ちなんかしてた。それから、千とせなんかは、まだいなかったんじゃないかな。
(小針)松鶴家千とせさん。
(師匠)彼の師匠の千代若・千代菊師匠なんていったら看板だからねぇ。
(小針)千代若・千代菊師匠も栗友にはお出になってたんですね。
(師匠)出てた。あと、(都上)英二・喜美江、大江しげる・笙子。坂野比呂志さんも奥さんと出てた、ちょっとモダンな美人でドレス着て漫才やってたよ。あの頃は夫婦コンビが多かったね。サンプク・メチャコとか。
(小針)今や知る人が少なくなった名前ばかり。
(師匠)サンプク・メチャコは、頭から「アチャチャチャー」(師匠、甲高い声で声真似をする)って、こういう声だして。「なにいってんだよ君はー」なんて奥さんに突っ込まれて。ヴァイオリンを弾くんだけど、音が全部外れてんだよ(笑)だけど面白い漫才だったよ。
(小針)すごいお話しですね。千太・万吉師匠は栗友にはそんなに出てなかったんですか?
(師匠)会長だから、たまに出てますよ。千太・万吉師匠が初代会長で、その次が英二・喜美江さん、それからヒット・ますみさん。
(小針)その後になるとトップ師匠になる訳ですよね。
(師匠)そうそう。あと、(青空)千夜一夜、春日章・チエミ。その春日章っていうのが、淳子・照代のお兄さんに当たる訳です。モダンで、ギターが上手くてね、いい漫才だった。僕は好きだったですよ。
(小針)サカエ姉さん(森サカエさん)の、お姉さんお二人も漫才だったですよね。
(師匠)そう、信子・秀子さんも看板。
(小針)音曲ですか?
(師匠)そう、三味線やって踊るんですよ。
(小針)浅田家彰吾さんとかもいらっしゃいましたよね。
(師匠)浅田家彰吾さん!カミさんはいい女だった。口うるせぇオヤジでね、近寄りがたかった。
(小針)あした順子・ひろしさんは、栗友にはお出になってないんでしたっけ?
(師匠)順子・ひろしさんたちは俺たちより歳は上だけど、漫才ではちょっと後輩になってたからね。初見兄児・弟児とか、そんなコンビもいたよ。色々思い出してきた。
(小針)ほかにどんな漫才がいましたか?
(師匠)そうだね、美田朝刊・夕刊さんとかは僕らの先輩。千夜一夜さんと同クラスかな、面白い漫才でバリバリやってたよ。昔の漫才は個性があったし、問題にならないくらい面白かったよ。ちゃんとした筋ネタをやってたからね。
(小針)南道郎さんてどなたとやったんでしたっけ?
(師匠)国友昭二。この方もちょこっと出てた、ビクターの専属司会でね。南道郎さんは役者の方にいっちゃって、コンビ別れしてからは名古屋へ帰っちゃった。それで僕らを仕事で呼んでくれたんだよね、でね「しばらくだったね」って。
(小針)今でいうイベンターみたいなことされてたんですね。

赤線最後の日は解散式で漫才

(小針)師匠!それから栗友の時ですよね、赤線最後の日に漫才したのって。
(師匠)そうそう、あれは昭和33年でしょ。新宿の二丁目で300何人だったかな、置屋みたいなところでさ、やったんですよ漫才。そういう経験した漫才師は、ほかにいないんじゃないかな?「夜のお姉さんたち」の最後の解散式だったわけだから。
(小針)すっごいですね。
(師匠)そういう舞台も踏んでるでしょ、どこからオーダーが来たんだかね。なんのネタ喋ったのか覚えてないけどさ。それで昭和34年には国際だからね。
(※当時、浅草国際劇場の敷居は高く、一流芸能人しか立てない大舞台であった)

日劇に出演した際のパンフレット

(小針)師匠は栗友から国際の板の上に乗るのが早かったですよね。昭和34年に和田弘とマヒナスターズショウの司会で国際劇場にはじめて出演されたわけですけど、日劇はどうだったんですか?
(師匠)日劇は「夏のおどり」だったかな、コント55号と新山ノリロー・トリローの交互で出たの。
(小針)てんやわんやさんじゃないんですね。
(師匠)てんやわんやさんは別に出てた。日劇にはしょっちゅう出てた。
(小針)日劇専門だったっていいますよね。
(師匠)そう、てんやわんやさんは日劇専門でね、演出家に可愛がられてたから。俺らはミュージックホールの方にも1回だけ出てんのよ。
(小針)え?漫才でですよね?
(師匠)漫才で。岡田真澄なんかも出てたけど、日劇ミュージックホールなんてよっぽどの縁がないと声かからないもん。洋物の漫才やってたから、ミュージックホールに合ったんじゃないかな。空飛小助とかも一緒に出たからね、空飛小助って看板スターだから。

昭和の漫才師の生き方

(小針)思えば、素晴らしい漫才のスターがいましたね。
(師匠)だから、いい先輩がいれば、いい後輩が育つわけですよね。
(小針)はい。
(師匠)そして「一日の長」つって、先輩には勝てないんだよね、どうしてもな。売れようが売れまいが、一日先にはじめた奴は不思議にうまいんだよな。笑わし方のコツを持ってるんだよね。それにいい先輩がいると追いつきたいって、そういう思いも出てくるしね。
(小針)そうですね。
(師匠)俺らの時代の、てんやわんや、桂子・好江、ピーチク・パーチク、レベルが違う。若手だってチック・タックだからね。
(小針)身震いするような、名人たちですね。
(師匠)トップのおやじは第2の師匠みたいにしてたし、直井(晴乃ピーチク)さんも好きな先輩だったなあ。それから千夜一夜の千夜さんも可愛がってくれたでしょ、だから俺はツイてるんですよ。
(小針)ピンでの仕事ってなかったんですか?
(師匠)変な話、ノリローだけを使いたいって話もあったわけよ。だけど、うちの師匠は絶対だめだって。コンビは二人で出るものだって、必ず二人で出る仕事にしなさいよって、こういわれた。他のコンビも大体そういう風習っていうか流れをしてたから、一人ででるってのはあんまり無かったんじゃないかな?

松竹演芸場「漫才横丁」時代

それと漫才ってのは芝居ができないとダメなんだよね。たとえば、直井さんみたいにコメディアンあがりだとか、南(道郎)さんやWけんじの東さんみたいにお芝居上がりだからできたんだよね。
俺らも秋田実先生が主宰していた松竹演芸場「漫才横丁」で、淳子・照代、平児・凡児たちと芝居をやってきたから。
(小針)松竹演芸場のお正月なんて、立ち見で戸も閉まらなかったっていうじゃないですか。
(師匠)そう。松竹演芸場はそれくらい混んでましたよ。
(小針)それを山田洋二監督が観て、『馬鹿まるだし』にスカウトされた。
(師匠)そう、映画は昭和39年かな。
今考えると俺らは一番ツイてたんじゃないかなぁ。我々は出るところはいっぱいあったし、経験を積んだから違うんですよ。やっぱ経験だからねぇ。
(小針)松竹演芸場の頃の、東京漫才三羽烏ってどなたでしたっけ?
(師匠)ノリロー・トリロー、京二・京太、そいからみつる・ひろし。これが、いわゆる三羽烏っていわれて、演芸場の看板にしてもらったんだよね。

大正テレビ寄席と東京ぼん太

(小針)それと大正テレビ寄席って、どんな感じだったんですか?
(師匠)まずね、松竹演芸場で漫才横丁やってるときに「プロダクションを立ち上げるから」って、スカウトされたんだよね。それで「わかりました」って連れてかれたのが、ちょうどNHKの近く、宇田川町の佐藤事務所。佐藤さんてのは浅草にあったワイヤンの「モアナ」って店のマネージャーやってた人で、奥さんみたいにしてたのが玉川スミさんだったからね。それで牧伸二とノリロー・トリローが立ち上げメンバーで、その後にミュージカルボーイズ、ドンキーカルテット、東京ぼん太、そういう顔ぶれが揃ってた。
(小針)売れっ子ばっかりですね。
(師匠)いいタレントを抱えてるから、渋谷の東急裏の奥野ビルに事務所がうつったんだけど、その目の前に東急会館てのがあって。そこで毎週月曜日、大正テレビ寄席を撮るようになったんですよ。
(小針)そうでしたか。
(師匠)そんな関係で牧伸二がレギュラー、我々も佐藤事務所に所属してるから他の人たちよりは出るわけさ。当時、視聴率が30%行ってたんだからね。
(小針)すごい視聴率ですね!ぼん太さんは大正テレビ寄席に出てたんですか?
(師匠)ぼん太は、あんまり出なかったかな。俺の一番の親友だったけど、ぼん太もちょっと変わってたし、彼も忙しくてねぇ。
(小針)そうですか。
(師匠)てのはねぇ、牧伸二がいるでしょ。ライバルじゃないけど、意識するわけさ。
(小針)ぼん太さんていえば、その頃、飛ぶ鳥を落とす勢いですもんね。
(師匠)そうそう!売れる前にぼん太と約束してたのは、「お互い売れたら、引っ張りっこしような」って。俺が師匠の家に住み込んでた頃、ぼん太はキャバレーで売れまくってたから。あんまり似てない声帯模写だったけどね(笑)
(小針)本当の親友だったんですね。

東京ぼん太さんと出演した日活「あいつシリーズ」

(師匠)ぼん太は47で逝っちゃったのかな、俺、あいつほど売れた芸人知らないもん。
東京ぼん太ほど稼いだ芸人いないんじゃない?
(小針)へぇー!
(師匠)半端じゃないもん、全国まわるのに15,6人編成のバンド連れて歩いてたんだから。
(小針)じゃあその楽団で『東京の田舎っぺ』とか持ち歌を唄ったんですね。
(師匠)ぼん太はコロムビアから何枚かレコード出してた、あいつ歌がうまいから。それでぼん太が売れたから、映画のときでも地方行くときでも「ノリちゃん、ノリちゃん」っていってくれて、それで俺たちの仕事がうんと増えた。
(小針)律儀な方だったんですね。
(師匠)変わったヤツだったけど、そういうことは非常にちゃんとしたヤツ。昭和14年生まれで卯年だけどね、よく遊んだし…あいつのおかげですよ。
(小針)ぼん太さんが賭博で捕まった時、面会行ったんですよね(笑)
(師匠)川崎まで行きましたよ、奴は檻の向こうにいたけどね。

仕事もしまくり遊び回った頃

(小針)銀座ローズさんとどっかの巡業で一緒になったっておっしゃいましたよね?
(師匠)旭川。旭川のヘルスセンターへね、バンドさんと歌の司会だったと思うんですよ。
それで休憩になって控え室にいたら、バンドマンが「参ったよ、おかまが風呂に寝そべっちゃって、目のやり場に困ったよ。ノリちゃんみてきてみなよ」って、こういうんだよ。え?って見に行ったら、銀座ローズだよ。他の3人くらいと寝そべってやんの。
「なにやってんだよ!」って言ったら、「あら、ノリローさん!」なんつって。
(小針)ハハハ!(笑)
(師匠)あの人、旭川の人だからね。そしたら「こっちに店出したのよ」っていうんだよ。
その時は浅草にも店出してたからね。
(小針)ヘラクレスですね。
(師匠)そう、ヘラクレス。チャコちゃん(筑波久子)とこまどりさんと銀座ローズの3人の看板で、筑波の方に仕事で行ったことがあんの。そん時に司会やったんですから。
(小針)時代でいうと昭和36,7年くらいなんですかね?ローズさんの踊りのテクニックってのは、どうだったんですか?
(師匠)それはちゃんとした踊り、ダンサーですから踊りは上手かったですよ。僕はチャコちゃんとも仲良くてね、六本木に「チャコ」ってクラブ出すから手伝いに来てよっていうから、拭き掃除に行ったりしてね(笑)あの人は外人が好きでね、そのうち結婚して海外行っちゃったけどね。
(小針)今も海外にいらっしゃいますよね。
(師匠)あと園まりちゃんもね、赤坂TBSのちょっと前の角で花屋出したの。俺やっぱ手伝いにいったんだけど、手伝うのが好きだったんかね(笑)
(小針)プティシャトーの開店の時も行ったとかって(笑)それは漫才で出演したんですか?
(師匠)いやお客ですよ。あの頃はまめに歩いてたんだね、色んなとこ行ったから忘れちゃったけど。ヘラクレスはパンツ一丁でね、連中はホストですよ。
(小針)それは普通のホストクラブで、フロアショウとかはあったんですか?
(師匠)それはないの。ただ、お客さんのとこ行って、こんなことやったりさ(筋肉ポーズをする)。店内はそんな広くないの。ようするに、その店のママが銀座ローズだった。
(小針)銀座ローズの店ってのは、また別にあったんですよね。
(師匠)そう、ヘラクレスを畳んで、ちょっと国際通りを入った地下に「銀座ローズの店」ってのをオープンした。
(小針)そこはフロアショウがあった?
(師匠)あった。そこで店の子が5,6人でショウをやるんだよ。そこも経営がうまくいかなくて、浅草は商売が難しいとこだからね。ローズも意外と早く死んじゃったもんな。あれでしょ、青江のママの門下なんでしょ?
(小針)へぇ、そうなんですか?
(師匠)そうだったと思うんだけどな。俺はぼん太と遊び回ってたから、ローズさんともウマがあって仲良かったですよ、いい人でね。顔は美形で、すごくいい顔してたね。それから、前言ってた吉野さん?
(小針)あ、吉野ママ。銀座でボンヌールってお店やられて、それから六本木で出された方ですけど。
(師匠)吉野さんて、あの人じゃないかな…。名古屋の御園座のとこに「やなぎ」ってゲイバーがあったんですよ。
(小針)やなぎですか(笑)
(師匠)やなぎって言えば銀座だけど、名古屋にもあって、そこのママが吉野さんて言ったんだよな。大須演芸場に10日間でるしょ、そうすると毎晩のように行ってたから。
(小針)また別の吉野さんが、名古屋のゲイバーでママされてたんですね。
(師匠)芸能界ともパイプのある人で、俺がそこによく行ったのは昭和42,3年だよ。
(小針)だいぶ古い話ですね!
(師匠)俺は地方に仕事行くと必ずゲイバー行ったけど、東京から流れてきてるのがほとんどだったよな。

下町のスナックで、第二の師匠・コロムビアトップと。

佐藤事務所のこと

(小針)その頃の佐藤事務所って、どんな感じだったんですか?
(師匠)僕は佐藤事務所に10年いたんですよ。そのうち事務所がナベプロと提携したから、ポップスの司会をよくやったんですよ。
(小針)演歌じゃなくて。
(師匠)うちの相方が偉そうに横文字使えるから、英語をベラベラって喋ると、僕が「その通りです」ってね(笑)
(小針)ナベプロ関係では、どなたの司会をやられたんですか?
(師匠)園まりちゃん、(奥村)チヨちゃんだとか、そいから加山(雄三)さん。加山さんが大変な時期に、チヨちゃんと4人で全国まわったでしょ。
そういう意味では仕事はいっぱいあったねぇ、みんな使っちゃったけどね。
(小針)ハハハ(笑)
(師匠)自家用車を持ってる漫才は、トップのおやじと、天才・秀才、英二師匠くらいしかいなかった。その頃、僕はトヨタの真っ赤なコロナって車を持ってたから。
(小針)へえ!

加山雄三さんとノリロートリロー師匠

(師匠)それ乗ってテレビ局をまわるんだから、ピン子なんかも「お兄さん、これどうしたの」って驚いてたよね(笑)
(小針)佐藤事務所の役員の方が、泉ピン子さんのお父さんだったでしたっけ?
(師匠)専務。江口さん、江口絋三郎。
(小針)若い頃は浪花節だったんですよね?
(師匠)虎造さんの弟子で、広澤龍造ってったの。それで麻雀が好きで好きで、事務所のそばに雀荘があるから事務所閉めると必ずそこに寄るんだ。
ピン子がまだ売れてない頃だけどね「小夜」ってお店を出しててさ、俺なんかほとんど毎晩のように行って飲んで歩いてた。
(小針)ピン子さんが売れる前のはなしも貴重ですね。
(師匠)ピン子が新曲のキャンペーンで浅草に来たんじゃないかな、俺が松竹演芸場に出てたとき、楽屋の化粧前のところに「ピン子より」ってお菓子置いてってくれたこともあった。
今、ピン子は俺のこと死んだと思ってるんじゃないかな、残念ながら生きてるけどね(笑)

「東宝名人会しおり」より。キラ星の如き演芸界のスター達

【2022年9月24日に行ったインタビューを中心に、2021年から複数回行ったインタビューをもとに構成。】

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