追憶~冷たい太陽、伸びる月~
巡る縁①
第12話 1960年代―緑の風を追って
百武佐奈子の裸眼を知る者は、現存する中ではわずか二体。
瑚子の先代にあたるグリーン・ムーンストーンと同代のクリア・サンストーンのみである。
双方の密命により、一体のトビヒ族女性がハナサキ族男性との間に子を産んだ。
両裸眼にもえぎ色の色彩を帯びて生まれ、覚醒すると状況に応じて色彩をえんじ色に切り替えられるようになった。
その子が佐奈子である。
杜を社会情勢に応じて、両族の長は一体ずつ同胞を差し出し、神々の混血児を産ませる。
両族間の同盟に則り、今代ではトビヒ族が母親となる番だった。
習わしにより、ハナサキ族の子を産んだ女はその後誰の妻になることもなく、佐奈子の覚醒後もトビヒ族の娘として育て上げた。
女は変色する裸眼を一度も忌み嫌わなかったが、脇目振らずに佐奈子を愛したわけでもない。
女は極端に口数が少なく、自身が担う使命の従者であった。
佐奈子に父親の記憶は一切無い。
佐奈子にハナサキ族としての才覚の方に恵まれていれば、力を使いこなせるようになるまでの間、師弟として有限の関わりがあったかもしれない。
当代クリア・サンストーンは有り得る展開に備え、佐奈子の実父とは別で自身が抱える側近の中で指導に適した同胞を見分けていた。
実際は準備が準備で終わり、両族長が最望する形で、佐奈子はトビヒ族としての生を選んだ。
佐奈子は両族本来の姿への転身ができず、発汗すれば人間の同世代と同じく、百倍ほど希釈した海水に食用酢を一滴落とした臭いが漂った。
植物の嗅ぎ分けに関しては、風邪を引いた野良犬以下の能力であった。
素肌で気候の変化を察知することもままならないので、自宅ではテレビとラジオの天気予報を確認しないと外出すら不安だった。
百武家はトビヒ族のみの女所帯なので、なおさら不便な生活だった。血縁の近い同胞は必要に応じて男手を貸してくれたが、それ以上は佐奈子が居る家庭に踏み入らなかった。
母子との距離感が掴めなかっただけだと後に発覚するも、佐奈子は孤独な子供時代を忘れ去ることなどできなかった。
トビヒ族専用のコンタクトではえんじ色への変色に対応できないと、佐奈子は自身を先天性色覚異常の患者と偽り屋内外でもサングラスを外さなかった。
当時の社会は同調意識が令和時代と比べて強く、クラスメイトの男子生徒が佐奈子を異端者として扱い、不意を突いてサングラスを外そうと毎日試みた。
女子生徒は視線が合わないことで意思疎通不可能な不良品として、佐奈子は休み時間のたびに陰口の対象となった。
帰宅すればトビヒ族の歴史と覚醒の知識を植え込まれるだけで、佐奈子のトビヒ族としての自尊心は一向に芽生えなかった。
長崎市立小学校の卒業を控えた雪解けの日、佐奈子の眼力は完全に覚醒した。
同じく長崎市立中学を卒業するころには完全に眼力を思いのままにできるようになり、佐奈子の存在意義を自覚した。
それでも佐奈子である理由が、本人には理解できていなかった。