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記憶の階層


久しぶりの終日内勤なので、かねてより食べログに保存していた町中華で昼食をとった。インスタや口コミでよく見かけた天津チャーハンを頼んだ。拙者、天津チャーハン大好き侍。店を後にするころには、行列が出来ていた。

味はといえば、普通に美味しいけどリピートするほどでもないし、ましては並ぶほどじゃないなァ。量は多かったから、コスパも相まって人気なんかなァ。SNSきっかけっていう客層でもないような。なんて考えながら、急激に「夏」の日差しを帯びた堺筋本町の一角を歩く。

思考は、これまでで最高に美味しかったチャーハンってどこだろう?総大醤かなあ、普通に王将のも好きなんだよなァ。なんて方向に走り、脳内でランキングが構築されていく。

本題。
食べ物でも、ライブの体験でも、よくどれが良かったか、なんて会話になるが、そこまでの優劣が本当にあったのかと内省することがそこそこある。
つまりは記憶の階層の問題ではないかと思う。その感動の純度よりは、引き出しの上段に入っているものを無意識に選んでしまうのではないだろうか。
もちろん、感動度合いが高いから、上段に入れてる事実もあるだろうけど。

お気に入りのTシャツばかり着てしまうように、引き出し上段の記憶ばかり引き摺り出してくるものだから、思い出されない記憶が鮮明さを失い、挙げ句忘れてしまう。その時の私はひどく感動していたかもしれないのに。

そんなことを思うたび、どこか損したような気持ちになる。


労働から解放される僅かな暇で巡らせた思考が、なんだかコムズシイ様相を見せてしまった。さあ、思考を止めて、再び労働に徹するとしよう。

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