劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト
※ネタバレ注意でお願いします※
舞台の上の少女たち
公開が延び延びに延びて、2021年6月4日ついに劇場公開です。本当に良かった。おめでとうございます。
さて、前売りを意図せず2枚ほど買ってしまったので2回鑑賞してまいりましたので、散文的にはなりますが感想を書きたいと思います。
当note主はアニメ文化に疎いのでいろいろ慣習からズレてる部分もあるかもしれませんが悪しからず。スタァライトは大好きな作品でテレビシリーズ12話はループしたけれど、実写版はまじで何も知らない(最初の作品を円盤で観ただけ)にわかファンなのでご容赦。そして、大事なことなのでもう一度、
※本noteはネタバレを含むのでご注意願います※
キリンとトマト
シリーズ第2期を首を長くして待っていたけど、これは放送できないなぁと。結末はいいのだけどそれに至るまでに葛藤し悩み抜く過程がとても凄惨で人間臭くて。スタァを目指す少女たちの孤独とか、時間の儚さとか残酷さが生々しいまでに描かれていました。
で、そう思った時に、レヴューを見守るのがキリンである理由がわかった気がします。彼もまた少女たちが燃料をたぎらせて自分を再生産して輝く瞬間を、作品を観る者と一緒になって"首を長くして"待っているんだと。
野菜の組み合わせでキリンのフェイクが造形されていたのは面白かった。パンフレットの監督対談でもアルチンボルドの名前が上がっていた通り、燃料としての野菜ということか。
じゃあなんでトマト?ということなんだが、まずは赤い食べ物・野菜の代表格であること。赤の色は生命の色でもあり、主人公華恋のカラーでもある。
個人的には、潰れるトマトを見ていてなんとなくディズニーの「ノートルダムの鐘」を思い出した。お祭りで民衆からトマトを投げつけられてカジモドが見せ物にされる辛いシーン。ナチスを批判したドナルドの短編作品でもヒトラーの似顔絵にトマトが投げつけられて終わる。これはディズニーの慣習なのかもしれないけど。
トマトが冷酷な現実、批判とか感情を象徴しているとしたら、そんなトマトをまるで覚悟を決めたかのように自ら齧る行為は少女たちが大人になること(現実を受け止めて進むこと)を示唆しているのではないかなとふと思った。今回の作品ではみんな高校三年生、卒業後の進路について悩んでいるという背景もありますし。
アルチンボルドと燃料
トマトが血肉、あるいはそれの抽象として人の感情と直結しているとしたら、それは「燃料」の象徴だと思った。
ホームの終わりでアルチンボルドのキリンが燃え尽きた。私も燃料になれたのですねと嬉々として。それはつまり、観劇する熱き情熱をもった観客もまた「燃料」になりうるということ。そして舞台少女たちがそうして燃料を補給し続け、舞台に立ち続け、飢えればまた燃料を欲するということ。
普通の女の子の幸せでは満足できないキラめきを知ってしまった少女たちの物語。そうすると第7話でループを繰り返す大場ななのアトリビュートがバナナであることは、ななはみんなの元気の源、癒しつまり「燃料」だったということ。しかし燃料でありながら、自らも燃料に飢えていて思い出に縋っていたと。テレビシリーズの台詞とリンクして面白い。
燃料といえば
列車も走るためには燃料が必要で、それにジェットエンジンぶっ放したのが「かれんちゃんへ」のお手紙。そして過去の自分、家族。
「ひかりに負けたくない」震えましたね。いつでもひかりと共にあることを望んだ華恋が燃えた瞬間。いやあ、震えましたね。
炎と水
テレビシリーズ第8話について、「ひかりは水属性」というファンの考察を目にしたことがある。ロンドンの王立演劇学院のリサイタルのステージで、燃え盛るセットのなか主役の舞台少女に剣を突きつけられ、ひかりは燃え尽きて渇いてしまったと。それを示唆するように、生命を失い骨になって陳列される博物館の化石たち。この回のななとひかりのレヴューで、ひかりの表現として水が出てくることもそうだと。
言い得て妙で「燃える」というのは精神的なものもあって、ひたすら燃えてきらめく華恋、それと対照的にクールで繊細なひかりは水。ひかりは炎の熱にも消えないめげない強い水になる。絶対に一緒にはなれないからこそ惹かれ合う炎と水。ブラヴィッシーモ!
推しのまひる
怖かったw すごいなぁ。のほほんとしたキャラクターだからなおさらそのギャップがでかい。ひかまひ好きなのでひかりとのレヴューは待ち望んでいました。本音を吐かせて「私もまだ怖いよ」と慰めるまひるはやっぱりお姉ちゃんだな。何のためにこまでしてひかりを詰問したか?を問えば、そこには愛すべき華恋への思い、華恋に報われてほしいという願いがあるわけだから、とても心の広い子だ。
「舞台で待ってる」
舞台少女心得幕間でひかりを迎えにいく華恋にみんなが口々にくどいくらいそう伝えていく。でも思えばその通り、華恋にこのセリフを言えるひかりはそう声をかけたことが今までなかった。舞台に立つもの同士、あの場所で生きていこうっていう激励の言葉だったんだこれ。
華恋とひかりのレヴューは、互いにプレゼントしあった髪飾りが取れた状態での決着。そしてトマトを投げ渡し、次の舞台を探すように諭すひかり。思い出によらずに、次の駅に向けて終わるレヴュー。エンドロールの最後は「去れ」。
全12話を見る中で、舞台少女たちの痛いほどの深い絆、依存ともいっていいほどの重い想い、理想・思い出への固執…。「危険だから美しい」まさにその通り。美しくあろうとすることの危うさ、そうまでしてきらめこうとする意志の尊さを思いました。舞台少女の未来に幸あれ
東京と電車
NHKの朝ドラって絶対に主人公たちがみんな地方出身で方言とか地域の文化がアイデンティティになっているから、見るたび疑問に思っていた。「東京の人が主人公になっちゃダメなのか?」と。
スタァライトが港区を中心とした東京を舞台にしていることも、ほんの些細ではあるけれどスタァライトという作品に惹かれる一つの理由ではあるんだと思う。
第4話で華恋とひかりの会話の掛け合いに東京タワー周辺の街並みが描かれていて、そこに電車も登場してきた。ただし映画ではメトロ。高校三年生の迷いとか、一つの青春が終わる影のようなものが映し出されているように感じました。
劇場版ではその多くがレヴューのような抽象的、神秘的な描写。テレビシリーズのキーだった東京タワー。そして映画中でそれが崩れた廃墟から伸びる線路、電車、高架、駅。怖いくらい広い青空と砂漠。息を呑むほど壮大な景色。
こんな美しいアニメがあるんだ。というか、アニメって芸術だったんだな。
18歳の憂鬱
高校生が終わる時ってほんとうに憂鬱になったのは私も記憶にあるから、舞台に生きるような繊細な少女たちはなおさら、その憂鬱がさらに光と影のコントラストを増しているように思った。
華恋の経歴、ひかりの弱さ、まひるとひかりの関係、香子と双葉の関係、真矢の本音とクロディーヌとの関係……テレビシリーズでは描かれきってなかった部分がはっきりとなっていたでその点はとてもすっきりした。純奈の進路と不安で暴走するななも、高3の頃の空気を鮮明に思い出せるくらい生々しかった。
血、死体の生々しい表現は本当に心臓に悪かった…。レヴューという抽象世界での話で、舞台少女としての「死ぬ」だから本当に生命を亡くしたわけでないことはちゃんと鑑賞者にもわかるんだけど、それにしても「死ぬ」って言葉をあまりにも軽率に使ってしまう昨今に、人が死ぬってこんなに怖いんだ…って思い知らされてただただ肝が冷える。真剣、シリアス。
シリアスといえば、第101回聖翔祭のスタァライト脚本を書いてる雨宮さんと眞井さんのシーンもよかったなぁ。時間で区切りをつけること、未完成な自分を恐れないこと、変わりゆく世界を受け入れること、夢を追い続けること、そのために次の舞台を目指すこと。
おお、ああ。何も言えねえ。スタァライト最高。急な小並すまん。いやでも、スタァライトに出会えた人生で本当によかった。ありがとうスタァライト。
優れた作品を見終わった後、その感想を書き出した後って世界でいちばん空っぽになるんだ。燃料切れだわ。ちょっとさっき買ってきたホットドック食ってくる。
あ、ケチャップもらい忘れた…
※本記事の画像は、スタァライトチャンネル動画からのキャプチャー及び公式Twitterで公開されたものを拝借しました。
https://twitter.com/revuestarlight/status/1403879798200537090?s=20
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