「ファイアーエムブレム風花雪月」を通じて思う「正義」とか「戦争」とか
この記事は「ファイアーエムブレム風花雪月」を通じて、昨今の不安定な情勢を考えてしまった一人のプレイヤーのnoteです。
書いているのは、ゲーマーではないしファイアーエムブレム(通称FE)のファンではありますがにわかと言っても差し支えないタイプの人間のため、ゲーマー界隈の文化等々わかってない部分があるかもしれません。その点はご容赦願います。
「風花雪月」にハマったところからこのnoteは始まる
引っ越し後、2021年秋から今にかけてハマりにハマっているのがNintendo Switch「ファイアーエムブレム風花雪月」(2019年発売)というシミュレーションRPGである。
元々FEシリーズは「封印の剣」からいくつか作品をプレイしていて好きだった私ですが、そのストーリーの緻密さ、キャラクターの意志に惹かれてここまでどっぷりとゲームにハマったのは「風花雪月」が初めてだった。限定版ボックスなども中古で買い、公式グッズも買い漁り、つい先日に発売された「ファイアーエムブレム無双 風花雪月」(2022年6月24日)もちろん豪華版を購入。なんなら別途ダウンロード版を購入して24日は有休を取って0:00よりプレイに勤しんでいた。
そんな「ファイアーエムブレム風花雪月」の全ルートをクリアし周回し、この素晴らしいゲームの記事をnoteに公開しようと年明けから執筆を進めていた。その最中に起きたのがロシアによるウクライナ侵攻だった。
忘れもしない2022年2月24日
FBS福岡放送のアナウンサを務めている推し・小林茉里奈さんの誕生日。しかし彼女がレギュラーである朝の番組バリはや!のTwitterアカウントが「小林アナお誕生日おめでとうございます」のツイートをしたのはその翌日だった。
ロシア軍によるウクライナ侵攻の開始のニュースのためだろう。
戦争が始まった。我々が住んでるすぐ近くで。
仕事の忙しさも相まって、ゲームをやり込む手が鈍った。発売されたばかりの「無双 風花雪月」も、実はほとんど進められていない。仕事が忙しいせいかも知れないし細かい画面を見続けるのが眼精疲労を悪化させてしんどいという理由もあるけど、時間があっても気が乗らない。今までのようなゲームプレイのワクワクする感覚がなくなった。
「風花雪月」の残酷な魅力
「ファイアーエムブレム風花雪月」(2019年)は、プレイヤーが操る主人公が士官学校の先生となり、選択した学級の担任を受け持つことでストーリーが分岐し、その後の世界情勢(フォドラ大陸の帝国・王国・同盟領の均衡)がまったく異なるストーリーが展開する。学級は3つだが、さらに分岐して計4つのストーリー展開が編まれている。
「風花雪月」の特徴として第一部の士官学校編に対してその五年後の第二部・戦争編が挙げられることが多い。士官学校では3つの学級に分かれてはいるもののクラスの垣根だけでなく身分・地位の差を超えて互いを尊重し合い、仲良く過ごす平穏な学園生活の中、力を合わせて戦闘ミッションに取り組むという内容。
それから五年後の第二部では、帝国が王国に宣戦布告して起こった戦争の大混乱の中で、学校時代に仲良くしあった旧友同士、幼馴染同士、親友同士あるいは血縁者同士が、帝国・王国・同盟のいずれかの立場の「兵士」として対立し殺し合うことになる。
(ちなみに「無双 風花雪月」(2022年)は、「風花雪月」第一部と第二部の中間の時制に当たり、まったく別の運命が展開されるストーリーになっている)
そして「ファイアーエムブレム」シリーズ最大の特徴として、「一度失った仲間は二度と戻らない」という点がある。死んだキャラクターがその後一切プレイに使えなくなるシステムである。
これは今は「カジュアルモード」というモード切り替えによって解消されてはいるが、そういう特徴を持った作品であるから、全キャラクターが戦闘中に致命傷を受けた時の「断末魔」、そして死に際の言葉が何パターンか収められている。これは好きな思い入れのあるキャラクラーほど辛く、技量のある声優さんほど聞いていられない悲痛な叫びとしてプレイヤーに響く。
「ファイアーエムブレム」は1990年のファミコン作品から30年以上続くシリーズタイトルだが、近年ではハード(ゲーム機)の進化によってCVがつき、「風花雪月」も全セリフフルボイスで楽しむことができる。そんな非常にリッチな作り込みの作品であるが故に、キャラクターが戦死する際の迫力も増している。
実際、ステージミッションの「勝利条件」になっているネームドキャラを倒した後、呆然としてしまい、しばらくAボタンを押す(次に進む)ことができなくなってしまう。
彼を・彼女を殺さない運命はなかったのか。話し合ってどうにかできなかったのか。命を賭けてまで貫きたい「正義」、そこまでして叶えたい「未来」とは何なのだろうと考えざるを得ない。
風花雪月には「選んだ未来」の他の「選ばなかった未来」がある。別のセーブデータで「選ばなかった未来」の方を選んでプレイを進めることもできる。誰と戦い、誰が死ぬか、誰が勝つかが変わる。
世の中には数多のゲームが存在する。銃撃戦をしたり敵を戦闘でやっつけるゲームもたくさんある。私はゲーマーではないので多くの作品をプレイしてきたわけでは決してないが、ここまで「命の重み」「選択の重み」をプレイヤーに体験させる作品が他にあるのだろうか。
楽しい。だけどあまりにも残酷でこれが「戦争」なのだと思い知らされる。何とも奥深い作品です。
「死」の環境で感情が大きく変わることについて (※風花ネタバレ含む)
「風花雪月」には4ルートあるのですが登場人物は共通。その中にアドラステア帝国のフレーチェがいる。
フレーチェの兄は、帝国軍のランドルフ将軍。帝国ルートでも王国ルートでもランドルフが亡くなることには変わりないのだが、帝国ルートでの勇ましい戦死に対し、王国ルートでは王子ディミトリ自ら手を下し、惨たらしい殺され方をする。いわゆるオーバーキル。
そのため王国ルートでは、フレーチェは「村娘」を自称し王国軍に志願し軍内に潜入し、兄の無念を晴らすべく憎悪の感情を爆発させてディミトリを刺し殺そうとする。そこを制されてディミトリは無事に逃れ、「村娘」が軍の者に罰則として殺傷される。
同じ一人の少女の運命なのに、こんなにも変わるものなのか。末路だけでなく抱く感情がこんなにも変わるものなのか。
CVの声優さんの凄みを見ると共に、人間の恐ろしさ、出来事・環境による豹変っぷりに驚く。
兄が納得のできる死(自ら望んだ帝国軍人としての死)を遂げることができれば穏やかに、兄が辱められる酷い死を遂げたのならば底知れない憎悪を生じさせることになる。
同じ「死」でもこうも違うのである。「死」の違いが、残された人間の感情をこうも大きく左右するのである。
話をフォドラから現実に戻す
ロシアのウクライナ侵攻は気がつくきっかけにすぎない。この数年に蓄積された様々な変化が、小さなことからギリギリと我々の首を絞めつけるように生活を変えていっている。
思いつく限りで挙げるので時系列が前後しますけど、デパートの屋上からの飛び降り自殺があればその動画が、小田急線で"ジョーカー"が刺傷・放火すれば、燃え盛る車内の恐ろしい動画が、SNSに拡散される。参院選の直前に安倍晋三氏が銃撃された瞬間の映像を、各メディアがこぞって報道した。モザイクなしで流血する氏の写真を上げたネットメディア(大手)も見つけた。日本で銃犯罪。銃は手作り、材料はネット通販だという。
先日の安倍氏のニュースを受け、BBCの在日記者が興味深い指摘をしていた。
このBBCの記事ではこのように切り出し、2019年京アニの放火事件、2008年の秋葉原無差別殺傷事件を挙げている。犯人の統合失調症などの持病、家庭問題などバックグラウンドがそれぞれ異なるため一括りには言えないが、「個人的な恨み・鬱憤を晴らすための大きな事件が後を絶たない」、という記者が抱いた印象はあながち外れてはいない。そして安倍氏の事件の犯人の動機も、大きく分類すればここに括られることになる。
世紀の前半、負のループ
このような事件が盛んに報道される中で、不安や恐怖で頭のネジがぶち飛んでおかしくなってしまって、正常ではない行動で世間を脅かしてしまう人が出てくる。駅で鎌を振り回す者、電車でノコギリを組み立てる者など、多くの人が不安になる中で「不安すぎてやばい行動を起こしてしまう人」がまた物騒なニュースとして報道され、負のループは終わらない。
穏やかではないですね。
美術史を通じて世界史を勉強してきた身の実感として、「世紀の前半は不安定な時代が続く」というのは偶然ながらひとつ言える事実のように思います。今、2022年。まさにそうです。百年前に第一次世界大戦が終わったばかりです。
私も上記当該のニュースの情報には翻弄され傷付きましたし、同じく情勢に傷つき暑さで虫の居所の悪かった上司に「正義を振りかざされる」ような叱責をされ、理不尽にメンタルを負傷しました。負の連鎖は止まりません。
戻ってきたはずの体調もまたぼんやりしてきて、寝ても寝ても眠いです。寝不足のはずはないのに、疲れてくると嫌なことばかり沸々と思い出してしまいます。
見えない傷は癒えていません。それでも平気なふうにして毎朝起きて1日を過ごすわけです。
「正義」とは
「正義」とは何なのか。ある一つの正義と、それに反する正義がぶつかり合った時、互いを認め合い、和解する方法はないだろうか。
ウクライナ侵攻の国際問題に際して知ることになったナザレンコ・アンドリー氏のスピーチ。在日ウクライナ人である氏の指摘は淡々としていて鋭い。
そんなに平和を解くのであれば今ウクライナに来てほしいですと訴え拍手を浴びる中で続けられた言葉が刺さった。その一言を抜粋する。
「正義のぶつかり合い」が戦争だと言うなら、それは言葉による話し合いで止められるものではないのだ。答えは出ていた。ロゴスから始まったはずのこの世界は、言葉によって争いをなくすことはできない。是。悲しきかな。
私が生きてきた中で最も納得できた「正義」は、アンパンマンの作者・やなせたかし氏の「おなかを空かせた人を救うこと(食べ物を与えること)」以外に聞いたことがない。これもやなせ氏が世界大戦を経て得た教訓なのである。
今を生きている私にできることは、「正義」を「選択」することなのだろう。自分の選択によって何が・誰がどう変わるのか、それは良いのか悪いのか、結果として良くなっていくことができるのか。ひとつひとつを考えて、その場の感情ではなく良心にてよく考えて選ぶことなのだろう。
戦争ゲームの世界で
そんなわけで、大好きなゲームで「ストレス解消だ!どりゃあああぶっ飛べえええ!!」とボタン連打で敵をぶっ◯すプレイしていいのかと考えてしまう瞬間があるくらい、今、私は参っている。
それでも「ファイアーエムブレム風花雪月」「ファイアーエムブレム無双 風花雪月」には人情とドラマに溢れた深い世界が詰まっていて、それがSwitchの中で私を待っている。そのことを知ってるので、休みの日に気が向いたらちびちびと進めるのだけどね。
その残酷さから"トラウマゲーム"と揶揄されることがあるし、実際プレイの手が鈍ることもある。だけど、戦争が話し合いで終わらないのであれば、クリエイターによって編まれた戦争ゲームの世界で「正義とは」「命とは」という解のない問いと向き合う行為は、決して無意味ではないだろう。
任天堂様、コーエーテクモゲームス様、本当にありがとうございます。言葉を絶するほどの感謝を。
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