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演習・箱根 岡田美術館にいく「若冲と一村」with景徳鎮

箱根登山鉄道は、世界で2番目の急勾配を誇るらしい。
先頭車両と2両目の後ろが2メートルほど高さが違う、と車内アナウンスがうやうやしく説明している。「3両の場合は3メートル程の差になります」
本当だろうか。
今まさにその急こう配の中にいるというのに、ぼんやりした頭で、日本語と英語の説明を聞いていた。


スイスバーゼルに行く前の演習として、箱根の岡田美術館でやってる一村と若冲の展示を見ようと思っていた。

東京側から行くと、電車を乗り継いで、バスか登山鉄道、そしてバスという、ハードルの高いコースです。
しかも早朝に出て、それなりに荷物を持って。ご飯はコンビニおにぎりを1個。

なんでそんな小旅行程度の話がハードルが高いのかというと、私はパニック発作が出ることがあるためです。前は1駅電車に乗るだけで降りてトイレに駆け込むみたいなことをしていたけど、まあ、ほどほどになんとかしている。
以前のあれもこれも全部パニック発作だったと思うと、子供の頃からあったなというのは思い当たるのだけど、もうしょうがない。
対処法は「がんばって乗り越える」一択らしいです。
ヤバそうってなったら、ちょっと薬を飲むけど、「ちょっと酒を飲んで紛らわしてるようなもんだから!(By主治医)」ということなので、根本的には薬で治るわけではない。
今のところの対処法は、手を握りしめない事。
太ももに荷物を置いて圧迫しない事。
身体を冷やしたり、大量に何か食べたりして自律神経に刺激をなるべく与えないようにすること。
気をそらす事(まずいのど飴をなめたり、紙の文庫本で短編小説を読んだりする)。

そんなんで、異国の地に放り込まれて大丈夫なのだろうか。
大丈夫な気がしない。

なので、演習です。箱根演習です。
前回は東所沢の角川武蔵野ミュージアムに現代アートを見に行った。その時はだいぶうまく移動できたのだけど、今回は難所が多い。
特に、バス。そして地方の電車。うっかり一度降りてしまったらすべてが台無しで、助けもなく、1時間以上身動きが取れなくなる。
箱根は観光地だからそんなこともないかと思ったけど「小田原駅からバスで40分、でも大渋滞の場合もある」など、どう見てもあんまりいい感じではない。演習にはちょうどいい、と言えるかもしれない。倒れたらどうしよう。

なぜかの朱柱

なんとか小田原の箱根登山電車の駅までたどり着いた。
とても外国人観光客多かった。
アジア系より欧米、あとヒジャブをつけた人たちも結構たくさん。
(そういえば先日、駅のお手洗いでヒジャブをつけたお母さんと一緒にいた小さい男の子が「コンニチヮッ!」と叫んできたので「こんにちは」と返事しておいた。どうしても日本の女に日本語で話しかけたかったらしい。君、あれだな、女好きなタイプの男子だな。あとなぜかスーパーマンコスプレをしていたのでそういう気分だったのかもしれない)

さて、今回のルートは「今まで使ったことのない路線で小田原まで行き、そこから登山鉄道に乗り、美術館まで可能ならバス、無理そうなら歩く」というのが行きの行程です。帰りは、まあなんとかする。

ということで、なんとか登山バスにすごく硬い表情で乗り込んだ。
登山鉄道は、よくわからないけど鉄道ファンにはなかなかの見応えのあるポイントらしく、車内アナウンスも細かく説明をする。

箱根の山は天下の剣、スイスアルプスお友達

ベルニナ急行はスイスの鉄道。ベルニナ号ってカタカナで書くときっとすごい違和感なんだろうな。
来月スイスに行く時はベルニナ急行には乗りません。乗り鉄にとっては絶対乗りたい1本らしいですね。詳しくは存じませんが。

でもとにかく、演習です。
なんとか乗り継ぎ、無事に下車、からのバスで、寝不足の早朝訓練にしてはそこそこうまくいったと思う。
スイッチバックという急勾配の登山鉄道でしかやらない走法で、みんなワクワクしちゃうらしいけど、私は途中で「モタモタしないでほしい…」ってなり始め、ひっそりパニックが出てきそうになって、無言で戦っていた。
とりあえず、登山鉄道の戦いは勝った。

そして、うまいことに美術館までのバスにも問題なく乗れて、スムーズに目的地の岡田美術館へ到着です。

さて本題はこちら。
一村をみたくて奄美大島まで行ったことがあるので、楽しみにしていたんだけど、事前に展示の目録を見て「少なっ!」というのは思ってた。
ダチュラとアカショウビンが見れたのは嬉しいけど、アダンの木とか、見たいのになー。

若冲は「そりゃ貴館はお持ちですよね」というかんじではあったけど、このどちらも近年になって人気爆上げの日本画を並べるんだからもう少し見せてくれても……みたいな気持ちです。

この入り口のタペストリーで見れる絵がほぼ全て…

それよりも。
とにかく常設展示をまず見てからね!というスタイルなので、あまり興味のない焼き物をじっくり見る羽目になった。

宋・元・明・清・景徳鎮
たかいぞたかいぞHA・KU・JI!(白磁
みんなが大好き柿右衛門
絶対見とけよ三彩駱駝🐪!

もー。
みないと絶対先に行かせないもん!という強い意志を感じる配置。

わし、一村見に来たんや…
三彩駱駝は実物見れたの嬉しかったけど、景徳鎮の景徳鎮が景徳鎮してて、「パチ屋は金持ってんな」という嫌味が出てくる。
(岡田美術館はアミューズメント企業が母体とのことです)

この辺りで血糖値が落ちてきたのも良くなかった。一村にたどり着く前に景徳鎮で機嫌が悪くなってくる。
しかし携帯、スマホ、飲み物食べ物一切をロッカーに入れろと言われて、館内に入るのに飛行機乗る前みたいな手荷物検査までされる厳しさなので、いちいち入り口まで戻るのも面倒くさくなってしまって、そのまま鑑賞続行です。

田中一村は、日本のゴーギャンなどとも言われている。言わんとすることはわかるし、南国に行ってちょっと陰鬱な雰囲気の絵を描いているのも似ている。
もともと絵の上手い日本画家ではあった(同窓生に東山魁夷がいる。私はこの人の絵を子供の時に見せられたけど、実はあんまり好きじゃないんだよね…がんばって描いたファンタジーみたいな気配がなんかピンとこないところがある)けど、奄美大島で絵を描きたいと思い定めて移住し、かなりの極貧のなか絵を描き続けた人だ。
奄美大島移住前の作品の方がいくつかあって、きっと館のご趣味としてはそっちなのかなという感じはあった。
普通のよい日本画。
でも奄美大島時代の、あの異端とも邪道とも言われるような絵のゾッとする感じは、ないんですよ。
とても繊細で上手い、それだけ。
それだけで十分なのに、奄美大島時代の作品を知ってしまうと「きれいなだけ」という印象になってしまう。そのくらい、奄美大島時代の作品はゾッとする。
死んだら、こんな風景が見られるのかなと思うような空気が漂っている気がする。

若冲は、正確で写実的でそれを装飾的に使いつつ写実を崩さないところに気迫を感じる。
ほっこりさせないところがすごく好き。
一村はとっても貧困だったけど若冲はとてもお金持ちのぼんぼんで、一生遊んで暮らせるスタイルの人だったという。
全然ちがうスタイルで、時代も全く違う二人だけど、現世にあまり興味がなかった感じは少し似ているのかもしれない。

でも、もうちょっと見せてくれてもいいのに!若冲も、一村も…。一村は借りてこないといけないからあんまり量がないのはわかるけど……アダンの作品とか、ジャングルっぽいやつとか、もっと見たかった。若冲の対面といめんの一村を見たかったよ……

なのに景徳鎮でお腹いっぱいだょ…
中国の殷から始まる国家の名前を「もしもし亀よ」の節で覚えるやつが頭の中で渦巻いてるよ。
♪宋・元・明・清・景徳鎮(あゆみののろいものはない)
♪中華人民共和国(どうしてそんなにのろいのか)
景徳鎮は宋の時代に始まって長い事作られていたので、大体どの景徳鎮にも宋・元・明・清のどれかの時代の表記が入っていて、見れば見るほど中国王朝語呂合わせが沸き起こる。

元寇とか、秀吉の明への出兵とか、その前は遣隋使に遣唐使、いろいろあったよね、金印もくれたよね、景徳鎮も柿右衛門も、みんないろいろあったの知ってる、歴史の教科書で覚えた!
でも今は田中一村が見たかったの!

あまりにお腹空いて、すごい坂道の上にある併設のレストランに行こうとしたけど、30分待ちじゃきかないみたいな感じで、もう何もかもを諦めてご自慢の巨大風神雷神を見ながら入る足湯で甘いものを飲んだ。
足湯もねぇ…。スカートまくりあげて、素足をだしているのを、館内からおじさんおばさんたちのツアーでこっちを見るので、なんだかなー私の生足を大公開とか嫌だなーと思いながら、ツアーコンダクターの人が「ここは源泉掛け流し〜!」と大声で言ってた。
なお、タオルは300円で販売しているようです。
なんの用意もなく足を突っ込むと後で大変なことになります。(私は使い捨てペーパータオルと普通の軽量タオル持って行った)
お湯はとてもよかったです。
考えれば、せっかく箱根に行ったんだから温泉に入ればよかった。
パニック発作対策の演習だったから無理だった。

大迫力の風神雷神もちょっと時間が悪かったのかガラスの反射でよく見えない

結局、空腹すぎて、もう帰ろ…ってなった。
風神雷神図の前には池があって、よくよく育った金魚が泳いでいた。近寄るとエサをもらえると思って寄ってくる。

育ち過ぎて、もはや金魚というより赤いフナ

あっ、焼き物でも、ハニワと縄文土器コーナーはとてもよかったです!
ひんべえがいる!ってひとりで盛り上がりました。
横山大観の富士山の大きな絵も、大きくても横山大観タッチなのは、とても感心しました。
あと、常に火事エピソードがついて回る横山大観。
間一髪燃えずに済んだって話をよく聞く。

やはりまだ焼き物はわからない。
絵の方がまだわかる。特に景徳鎮とかは工房作というか、工業製品みたいなもんだしね。個人の個性で押し通すことができないので、鑑賞者側ももっと何か違うものを要求される。
勝手な個人の意味づけをして感動するが無いのだ。

あと、焼き物は戦国時代から過剰な投資物件で(天下を取る茶器とかいまだに時代物ドラマのネタになる)、そういうとこ今も昔も変わらないんだねと思うけど、ちょっとひいちゃうとこあります。ちょっとね。金持ちのオラつきがあるよね、景徳鎮には。
オラつく金持ちがいるから保たれる文化や技術ってあるけど、それにしてもちょっと引いちゃうのは許してほしい。
戦国時代の茶器は、今の仮想通貨っぽい美術品投資みたいな感じってわかると、現代の妙な美術品取引の話も、まあむべなるかなとなる。
あと、茶の湯で千利休がやってたことは現代のコンセプチュアルアートそのまんまだから、みたいな解釈の人もいて、まあまあわかる気もする。
そんなだから、景徳鎮もずっと変わらず景徳鎮な気もする。ビットコインよりも、何なら日本円よりも明らかにカタい。もう値上がりする一方なことは決定しているし。

バンクシーがなんであんな値段になるのか、みたいな話も、「信長だってちっこい茶器を一国一城と取り換えたりしてたじゃん」でいろいろ納得するところがある。
あんなダサい落書きも、あんなみすぼらしい小さい器も、そうなるのだ。

落語の「井戸の茶碗」はそういうみすぼらしい器の話で、とってもハッピーエンドな話なので、いろいろ見た後に思い返すとすごくキュートでかわいい噺だなって思います。
逆に高値で取引される焼き物を小馬鹿にした噺で「猫の皿(茶碗)」というのもあって、こっちは少し意地悪い。
まあでも、こんなに景徳鎮が景徳鎮な感じじゃないからかわいいもんだと思う。うん。

とにかくみんなも一回見てほしいとまで思ってしまった、宋・元・明・清・景徳鎮。
一回見ると、少しわかる。
台北の故宮博物院に行った時にもいろいろあったけど、あんまりわからなかった。それは「なぜそれが大事にされているのか」がわからなかったからだと思う。
今回、別に見たくもないのにたくさん見せられた(自分で金払って見に行ったんだけど)あれこれで、なんとなく「ドヤ!ドヤ!!」という押しの強さと、なんでそんな押しが強くなれるのかというのが、なんとなくわかった。
希少な事もそうだけど、それは価値があるってみんなが認めているから価値があるんだ、美しいからというのはおまけの理由に過ぎない、というのが、割とはっきり感じられたせいだと思う。

実際、美しかったし、すごいなと思うものもあった。
好みの絵柄や色、形のものものあった。
でも、そういう個人の好みはあまり重要視されないタイプの価値の世界なのだというのもすごくよく分かった。

それは「美」なのか、どうかはわからない。
じゃあ田中一村の奄美大島時代の絵は「美」かというと、一定の基準はクリアしていることは間違いないけど、そこにぞっとするような感じを誰もが抱くかというと、どうでしょうねーとも思う。ラッセンのほうが好き☆という人も結構いると思う。
とはいえ一村もわかりやすい異国情緒があって、ラッセンなみにわかりやすいと思うので人気が出たと思うんですがいかがでしょう。

分かればいいのか、人気ならいいのか、有名ならいいのか。
「いい」に決まっている。
同時に、そうじゃないものも含めておかないと、その「いい」はすぐに消えてしまう。

胸やけするほど「お高い焼き物」を見て、見たいものを見れないフラストレーションも、自分勝手なものだなと思った。
価値の高いものを見ていれば満足するというものでもない。
でも確かにこれはいいなとか、これは歴史の資料集で見たのと同じタイプのやつだとか、同じ時代のあれか、とか、そういう事はすごく重みをもってしまう。すでに知っていることを再確認することは、はじめて知ることよりも強い印象になるのだ。知っているものは強い。

とにかくご飯をくいっぱぐれたことと、思ったより一村がなかったことと、必要以上に景徳鎮を見たことで、ほかの事はとりあえずもういいやという気持ちになって、ちょうどよく来たバスに乗り込んだ。
「小田原駅行き」
最初に乗るのを躊躇したバスだ。
40分も路線バスに乗れるだろうか。大丈夫だろうか。
いや、でも途中で箱根湯本など登山電車の駅に停車するからヤバそうならそこで降りればいい、と思って、座れるところまで座ろうと覚悟を決めた。

が、箱根湯本を過ぎるとどこでどうあがいても小田原駅に行くまで乗っていないと詰むタイプのバスだった……。
でも、ちゃんと最後まで問題なく乗れました。
眠くなったのもよかったのかもしれない。
あと、山の中を走っているほうが、都市部を走るバスよりずっと気分がよかった。

スイスは、ほとんど都市部の移動なんですけどね……。
演習になったのだろうか。

往復で4時間かけて、美術館だけ見て帰ってきた。
なんとか電車もバスも乗れた。登山鉄道も乗れた。
どうにかなんとかなりますように。




あと、水墨画もいくつか見ていて、ふとぽたぽたと垂れる雫の偶然性を絵画に落とし込んだジャクソン・ポロックなどを思い出したんだけど、操作できない偶然性をめっちゃ操作して描いている水墨画って、そういう偶然性を用いるタイプのアーティストにとってはどういうものなのかなあ、とか思いながら見てた。
偶然ってなんでしょうね。表現において偶然なんて必要だろうか。
偶然に頼りたい自信のなさや、神秘主義的なヤケクソはわかるし、すべてを操作しようとする傲慢も憚られるけれど、水と墨のにじみを使って描き出されたものを見ると、「偶然に頼る」ことの甘さみたいなものはないんかな、なんてことをちょっと思ったりもした。

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