丸テーブルを抱きしめて座る日々と夜
丸テーブルを導入したという話が続いている。
それだけ、インパクトのある出来事でもあった。
丸テーブルが来てから、家から出ない日が増えた。
一度も靴を履かない日が増えた。
なんとなくよくないなとは思っている。
丸テーブルにつくと、曲線の加減なのか、何かを抱きしめているような感覚になる。
アマプラで、えげつない血みどろ系海外ドラマを流していても。(これはまじで救いがなく希望が壊され、ちょっと心の平安を手にしたように見えてしばらくするとさらにそれを残酷に壊す出来事の繰り返しで見ていられない)
インテリア、という視点でものを見る場合と、空間という視点でものを見る場合。
見え方は明らかに違う。
位置。
高さ、角度。
自分の背の高さ、関節の可動域。
視力。
空気の動き。
サーキュレーターをどこにどう置くのか。
光。照明。
壁にあてる間接照明。手元を明るくする明かり。
賃貸物件に最初からついていたシーリングライト。
窓。
ドア。
室温。湿気。
部屋の匂い。
煮炊きの匂いや、洗剤の匂い、その他いろんなものの匂い。
どの位置にある本に手が伸びるのか。
物起点で考えるインテリアと、空間から考えるインテリアは特に「動き」という点で違っている気がする。
物起点のインテリアは、主役は家具や雑貨で、住んでいる人はそういうものたちをお世話する係みたいなところがある。
でも自分が主役の空間を作ることは、特におしゃれな家具に憧れている時点ではむずかしい。だっておしゃれな家具様がお部屋の主役だから。
でも空間から考えると、動きが軸になる場合もある。
それも単に動線という意味ではなく、もっと自然な感じ。
丸テーブルは気分によって、背を壁にして守られているような位置で座ったり、壁を見て座ったり、簡単に変えられる。
壁にぴったりと長方形のテーブルをつけていた時は、座る向きは固定だったし、空間に余裕がなかった。いいかえればデッドスペースがないともいえるけど、実際にはそこにモノが詰まれて逆に空間が死んでたと思う。
さて、丸テーブルを抱きしめて、私は頭を働かせなくてはいけないのだけれど。それはどうなのだろうか。
バリバリ仕事ができる空間、という感じにはなっていないような気がする。
浮世離れした不思議な空間にはなっている。
卵の内側のような。