現代アートの肌触りはいつも似ているのだがしかし
ディオール展のチケットで常設展も見れるし、無料展示もあるからというので、時間が許す限り見てきた。
常設展の入り口のスタッフさんが、私より少し年上の女性だったのだけど、それはそれは丁寧に「ぜひ!見て行ってね!」とフロアの案内をしてくれた。
ディオール展もあれだけど、常設展への誇りというか、大切に思っている気持ちのようなものを勝手に感じ取る。
収蔵作品の展示で思い出すNYの美術館体験
どーーーーーんっと大きな作品をゆったりと空間に配置していて、非常に優雅でした。
ふと思い出したのが、20代の時に初めて海外にいき、ニューヨークで意味も分からず現代アートの美術館に連れて行ってもらった時の肌感覚を思い出した。
どの美術館だったか忘れた、というか、意図していない場所だったので(向こうに住んでいた知り合いと会った時に、そのまた知り合いである人が連れて行ってくれた……たぶん有名どころだから調べればすぐわかると思うけど)、何がどういう意図で展示されているかさっぱりわからなかった。
MoMAは意図していったので、「ああ、睡蓮だね!モネの!」と思いながら見たが、この現代アートの展示たちは、さっぱり意味が分からなかった。
分からなかったが、20年くらい前のニューヨークの美術館でも、今の東京の美術館でも、なんとなく肌感覚としては同じなのだ。
よくわからないが、なにか言いたいんだろうな!という感じ。
しかし、やつらは物なので、自ら動くこともしないし、自ら何かを説明することもない。
たとえ動画や音声がある作品であっても、そこには自らを説明するようなものはほぼない。お笑いのネタの笑いの理由を解説しなさい、と芸人本人にいうくらい、それは不格好で恥ずかしい事なのだろう。
その「何か言いたげ」をどこまで受け取る側が拾うのか。
拾えるのか。
拾ってどうするのか。
余計なものを勝手に付け足したりするのを止める手立てまで手放してでも、すべてを受け取る側にゆだねてよいものなのか。
英語も何にもわからないニューヨークの美術館で感じたことが、日本語が通じる東京の美術館でも同じように感じる。
肌触りが、とても似ている。
突き放された感じと、わからなさがとても心細い感じ。
同時に、「突き放された」と感じることはそこになんらかの関係性があった、あるいは関係性を結ぼうとした形跡があるということだ。
当時はそれがわからなかったが、今はわかる。
「ない」ことは、何があったのか、何があってほしかったのかを浮き彫りにする。
あと、わからないと言いつつ、「これだけデカい作品をわざわざ収蔵するんだからそれだけの価値があるんかな」とか、自分の価値判断ではなく維持費や設備への予算などを想像する程度には社会常識と教養とビジネススキルがついたので、その程度の浅い勘繰りはできるようになった。
意外とわかる現代アート
とはいえ、わからないばっかりではない。
というか、割と分かった。
分かったような気になっている、という部分と、「うっわ、ウケる!」の二種類がはっきり違って見えたし、知っている作家の有名な作品があると安心するという自分の脇の甘さも感じられた。
田口コレクションでも見た名和晃平さんの、表面のすべてがガラス球に寄生された鹿とか、相変わらずキモかったけど、前に見た田口コレクションの鹿とどっちがキモいかな、なんて考えながら見ていた。
知っていることと、わかっていることは、違う。
今回、私にとって二体目(および三体目)の鹿を見ることで、このことを感じた。
わからん、という感覚を見失うのは、危険なことだ。
逆に「うっわ、ウケる!」と思ったのが、潘逸舟さんの作品。
『人間が領土になるとき』という、たった4枚のモノクロ写真。写っているのは、うつぶせの全裸の男性。それが海の中の、小さな島の上で、満ち潮になるとどんどん海が押し寄せて地面がなくなり、全裸のうつぶせだけが水面に出ている。
ただそれだけ。
これはよかったです。
海という場所、人間の体のどちらにも必然性を感じるし、タイトルがシンプルな言葉で、同時に法律とか国境とか、領海、領土、人権、そういったものが一度に想起させられるし、写っているのは自然に従っただけのまぬけといっていいほどの絵面で、怖いとも面白いとも、真面目とも不謹慎とも取れるし、「身体を張る」意味が私には十分感じられる。
現代アートの理解とは、この「うっわ、ウケる」という体感って私にとってはかなり重要な気がする。
「高尚ですばらしい」とか「絢爛豪華、ゴージャスリッチで美しい」とか、いろんな価値観があるけど、「うっわ、ウケる」は私の中でとても高得点をたたき出す。
潘逸舟さんの映像作品も、時間の都合で全部見ることができなかったのだけど、ただの海と波(に対峙する人間)を逆再生しているだけなのに、そこにおける意味が鮮やかに写っていた。
中国生まれだけど親の都合で日本の東北地方に少年期にやってきて、そこで育ち、そこを去った後に東日本大震災の津波があった。そういう背景があって『戻る場所』というタイトルを付けてこのような逆再生の映像を作る。
戻るとは、なにが、どこに、どのように。それは絶対にありえないとわかっていることに対して、どう向き合うのか。その非常にシンプルな形。
ただ波がどんどん海に吸い込まれていく、それも何度も何度も、ずっと。
そこに彼がどのような行動をしているかが重ねられているのだけど、やっていることはとてもシンプルで、まあ普通に考えたらちょっとおかしい行動には違いないけど、別に高い教育を受けなくてはできない事ではなく、その気になれば誰もができることをしている。
問題意識がなければ、これらの地味な写真や動画になんの意味を見出すこともできないと思う。
答えはそれぞれに違うし、でも答えが欲しいし、他人の答えを知りたいし、でもやっぱりそんなものはないし聞いたところで意味もないし、だけどだけどだけど。そういう逡巡が、とてもシンプルに地味な絵面で見えるようになってる。
海が津波でさらったものをもとの形で返してくれることはない。
ないけど、誰もがそれを願った。あの時は、願った。
その願いがそのままの形で表現されていたと思う。
シンプルで地味でわかりやすい構造、しかし、意味を理解できて、表面上はなんとなくユーモラス。
よい。
とてもよい。
教養と問題意識を持つスタミナ
それにしても、問題意識や背景への理解はある程度重要になる。
最近人と話していて、びっくりするほど教養がなく、その上頭が悪い人たちがいっぱいいるということにも気づいた。
頭が悪くてもセンスが良くてぐいぐい成果を出す人もいるし、教養があってもそれだけしか頼るもののない性格の悪い人間もいるので、頭が悪い事や教養がない事だけでは判断できないのだけど、大抵悩んでいる人たちはびっくりするほど頭が悪く、信じられないほど教養がない。
大学出たんだろ、と言いたくなることはよくある。
(逆にちょっとそれっぽいことを言っただけでテンションが高くなっちゃう教養大好きマンも付き合いにくいなと思うけれど。大企業にお勤めで独立に憧れているタイプに結構いる)
頭の良さ、教養の有無、センスの有無、能力の有無と技術の有無は、人それぞれなのだけど、困っている人は大抵これらが足りてない。
そこに、個人の欲(性欲、自己顕示欲が二大欲求だと思う)が絡み、さらに精神疾患が混ざって来たり発達障害と呼ばれるタイプのものが混じってくる形で、個人の問題が形成されていく。
個人の問題は、体調の問題以外は個人と社会の間に起きる問題にすべて集約されていく。
個人の問題が重なり合って、社会の問題になったり、社会の問題が個人の問題を深めたりする。
ここをシンプルに整えることは、問題をなくすことにつながるかというと、そういう事でもないというのが面白いというかむずかしいところだと思う。
このシンプルに整えられないことに対して、そのままにそこにアプローチしていく常識的に考えたらちょっとどうかと思うようなものたちが、芸術とかアートとか呼ばれる範疇にある、というような事もいわれている。
どうなんでしょうか、そんな気もするし、そういうことをしたからと言ってこんな贅沢な空間に置いてもらえるという事でもないし、なんなんだろうねという気持ちは常にある。
あるが、こんな矛盾したものを抱えている公的な機関が存在するという事も、面白いのかもしれない。
意味とか、価値については、全員が違う尺度を持っている。
ちがう尺度を持っている、ということに気づくには教養が必要だ。教養は武器だとか言う人もいるけど、武器ではない。自我の領土を広げるためのものだ。開拓のフロンティアに立つものだ。と個人的には思う。
ついでに問題意識というものも、かつては戦うために持つものだみたいな態度がよくあったけれど、戦うためとは限らない。時に戦う事も必要だが、本当の戦いはもっと複雑で巧妙で、むずかしい。
だから、そうする必要のない人にとっては無意味だし無価値だし、エネルギーのロスでしかないだろう。
「効率のよい」人生に教養なんていらないと思う。問題意識も不要だ。
そして効率よく他人のために働くことになる。
そんな人がたくさんいる。それがよいことだと、高く評価する人がたくさんいた。それは、搾取する側に都合のいい事だったのだけど。
芸術が人を救う事はない。
金のほうが救ってくれるし、医療のほうが人を救う。
ただ、たまに、ごくまれに、芸術も人を救う。
もうひとつの展示
無料で見ることができるのは、この「さばかれえぬ私へ」。
二人の芸術家の作品がそれぞれあった。
ひとつは、東日本大震災の衝撃とその後の復興の混乱に引きずられるような痛みのようなものを。
もうひとつは、かつて第二次大戦中に日本が風船爆弾というちょっとまぬけな、しかし大真面目にアメリカ本土へ爆弾を落とそうとした作戦の着弾地点をめぐったものを落とし込んだもの。
東日本大震災は自然災害だったけれど、そのあとの復興の混乱は人為的なものだったともいえる。
同じ国にいながら「流された地」とそうでない地、残ったものと残らなかったものと、残ったせいで、その人のせいではないのに、悔やみ続ける人の心、容赦のない復興という名の搾取のようなもの。
そういうのが、壁一面に引っかき傷のように、あるいは部屋の壁と空間と床に、散らばる。
ごくまれに、人を救う。
でも大体は救えない。
そういう無為と、でも確かにあの時存在した感覚が、同時にそこに存在するという体験。
東日本大震災は、本当に日本に関わる多くの人たちに大きな傷を与えたのだと思う。
一生癒えることはないだろうし、それでも生きていくか、生きるのが終わる日をどう迎えるか、それは人それぞれなのだけど、その「それぞれ」は、ここにたくさん並んでいた。
もうひとつの風船爆弾のモチーフは、「戦争が懐かしい時代になってしまっても、傷がなくなるわけじゃない」という感じがあって、それが傷口を掘り返すのとはまたちょっと違う感覚があって、もうちょっとじっくり見てみないとわからない感じだった。
ただタイムアップ。
時間という現実は無限ではない。
アートがよい、素晴らしいとはっきり標榜する事は、私にはまだできない。
所詮エスタブリッシュなご趣味という事も、事実だし。
でも素晴らしいものも、確かにある。
どうでもいい事も、確かにあるが、それもまた人間の形だ。
そんなことにかまけていられるのは、やっぱりエスタブリッシュ。特権階級とか、上から目線とか、選民思想主義的な感じとか、そんな意味です。
ただ、権力構造の特権階級者になるほど、そういう方外、つまり浮世離れしたはぐれ者を重用するものでもある。
今の時代、権力家とはだれか。
誰か限られた個人なのか、大衆か。
政府か、民間か。
媚びれば愛されるのか、否定することで愛されるのか、愛されないが重用されるのか、重用されるが槍玉にあげられてこき下ろされる噛ませ犬の役割なのか、常にあらゆる選択肢が見えている。
ただそれを、ひとつしか選べないのだから、迷うことはないのだろうなとも思う。誰かに勝ちを譲るようなことは、協調性でも何でもない、自我と権利の放棄だ。
勝ち筋だけを拾えばいいと思う。
勝って、よりよい世界に貢献したらいい話だ。
表現なき者は軽んじられる、それが美術館という場所だ。生存競争がバチくそに激しいし、全然優しくない。
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つよく生きていきたい。