クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ展 虚栄で死ぬ人間もいるのに彼らはそんなこと考えないで美しいものを作る
なんだか過剰なほどの熱狂を持って讃えられているディオール展、私は普通にチケット争奪戦で勝ち残って予約しました。
まずクリスチャン・ディオールはアートギャラリーに勤めていたというところから、マン・レイのオブジェなどが入り口にあって、そのあたりの美術の流れを見ていたので、なるほど…という感覚でドレスたちの群れに放り込まれた。
服の事からじゃなくて、ムッシュ・クリスチャン・ディオールのファッション以前を入り口に持ってきていたことに触れた感想レビューがあんまりなかったので(みんなドレスが!ドレスがきれい!夢の世界!!というテンションで)、この導入部分はとてもグッときました。
ドレスの満漢全席になる入り口、導入部分がとても繊細な感じでよかったです。
日本でのディオールの歴史も、私たちはかつて「所詮ディオールだってカネボウでしたし!」「サンローランは花柄の分厚いタオルセット!」と爆笑していた履歴についても、「ご婚約時、またはご婚礼の際の美智子様のドレス」としてうやうやしく出してこられると、「あっすいません🙇」みたいな。権威権威。
日本文化の影響とかは、パリではジャポニズム大ブームだったから当たり前で、ただそれを今の日本人としての我々がどう受け止めるかは、もう少し考えるべきところではあるよね、とも思う。
美しいがみょうちきりんなドレスは、ありやなしや。
そこに脈づく意識されない差別的な視線は、美意識という枠組みをどう伴い、どう扱うべきなのか。
川久保玲や山本耀司がずたずたの服を持っていって喝采とブーイングを浴びたのと同じ話なのか。
欧米様をありがたがるアジアの姿勢は、差別という乗り越えるべき課題を自らコケさせていないか。
みたいな、モヤッとしたものが令和の今でも存在している。今だからこそはっきりわかる、というべきなのだろうか。
とはいえ、さすがのメゾン。
世界一流とはこうである、というのを資本面でもクリエイティブでもバチッと見せてくれるのは、本当に学びがあるし、それを理解するにはこっちの手持ちのタマも必要だと突きつけられるようであった。
歴代デザイナーの代表作をまとめてみると、やはり世界観は違う。違うが、ディオールである。
この、襲名形式というか、ひとつの家があり、家元が代々変わってもその様式は守られて、みたいなスタイルは、面白いです。
日本はそこに血縁を強く求めるけど、世界のファッションメゾンは才能によって(まあほかにも大人の事情がたっぷりあるだろうけど!)襲名させていく。
それぞれの家の守り方と発展のさせ方がある。
展示方法も、どれもドラマティックだ。広告的なアグレッシブさと、美術展ならではの静的な雰囲気、床も壁も天井も好きなだけ使い、細かく照明を配置。
白のトワルばかりの部屋はとてもよかった。
ドレスになる下縫い、仮縫いの状態といえるものがずらりならんでいた。
ドレスの骸骨、ドレスの骨格標本の部屋だ。
その時点でもう美しいというか、ある種の完成であり、まだ過程でもある。
「見たか!我らが力を!」みたいな。
裸でも未完成でもこのクオリティぞ?なめんな?というオラつきを、実に美しく出していると思う。
具象と抽象の部屋もよかった。
そんなタイトルではなかったけど、ドレスの切れ端をタイル状にしたものと、ミニチュアなディオールのドレスや、靴やアクセサリーにジュエリー、バッグなどの具象が対になっていた。
われわれはどんな形になろうとディオールである、という自我への自信みたいなものを感じた。
もはや形而上の話ではないが、ファッションはすべて形而上でのやりとりである。みたいな圧。
有名人たちのドレスも、テンション上がる。
ダイアナ妃のリベンジドレスーー!ジョンガリアーノの下着風ドレスーー!
私たちが一番求めているのはこういうゴシッピィな展示かもしれない。
美しさとか芸術的な観点もいいけど、やっぱり「あの時のあれ!」という我々は歴史の目撃者であったという実感を呼び起こせるのは、ディオールだからこそだ。
鏡を使って壮大に見せる展示も素晴らしい。
ミスディオールの部屋が特に良くて、せせらぎと池を覗き込むように、鏡の床面を何度も覗き込む。
ナルキソスならそのまま落命。
素朴な草花を、最も自然から遠い感じのディオールがいそいそと大切にして再現しているのは、美しいけれど虫もいないし泥もつかない「奇形の自然」という感じで、少しゾッとする。自然そのままをよしとするか、理想的な自然をよしとするか、みたいな、ルネッサンスからバロック、写実主義、表現主義、そしてまた揺り戻される自然派志向という、人間たちの繰り返しがふわりと背後に潜む。
そう読むもよし、何も考えず「ディオールが素朴さを素材にするとこんな洗練されるんだね!」となるもよいのだろう。
ディオールは客に深読みなど求めていない、定価でがっつり買ってもらえばそれでよい。あとは余力で美しいお遊びを繰り広げていく。例えばこのような美術展をやってみたり。
そして大階段。
プロジェクションマッピングで流星が落ち、月が昇り、ランタンが天へ向かう。
この大階段、豪華な雛壇に星が流れるのを見て、私はとても気持ちが醒めていった。
パリコレのランウェイを再現するかのような作り込み、演出、どれも素晴らしければ素晴らしいほど、虚栄の二文字はひかり出す。
そもそも戦後物資のない中で贅沢なドレスを出して大顰蹙と大喝采の両方を得たクリスチャン・ディオールらしいのかもしれない。
美的センスがよく、ゲイで迷信深く占星術や占いばかりやっていた、金持ちで現実味のない男の世界。
その幻想で、魂が救われた者もいれば、その無駄金に人生を奪われた者もいる。今日明日食べるものもなく、汚れた服を死んだ者から剝ぎ取って寒さをしのぐ日々にいる人が、この同じ時間軸と同じ空間、地続きの国の中にいる。
その貧困の苦しみで、芸術やクリエイティブの足を引っ張るのはよくないとも思うけれど、その悲惨さの泥の中に落ちたことのない人間が、この服を着てこのバッグを持って、素敵な香りの高い水を振りかけてうっとりしているのだと思うと、言い知れぬものが沸き上がるのも当然だ。
悲惨な泥の中にいるせいで、だからこそディオールで埋め尽くそうとする人間も出てくるし、そういう人間をまた余裕があるものはバカにし、買うことのできない者まで「身の程知らずね、私はそんなことはしないわ」とDiorを買わない自分の賢さを自慢する。ただ買えないだけなのに。
このカバンに付いている値段のうちいくらかが私のところに、私の家にあったら、私は10年も15年も苦しまなくて済んだのかもしれないのに。
虚栄は所詮虚栄だ。100円のパンの方が人を救う。
美しい星空を投影して壮大な雰囲気を出しても、そんな場所で役立つ服はモンベルとかだ。ディオールではない!ディオールではないんだよ。
ディオールでは救われない世界があるんだ。
その世界では、ディオールはなんの価値もない。その断絶を私は一番知ってる。
以前は、虚栄のディオールを「人間の根幹・本質ではない」と拒否していたと思うが、今はそうではない。虚栄もまた人間の重要な部分なのだと思う。
そしてまた、虚栄を背負う覚悟も、人間が試されることだ。
虚栄など役に立たないことを知り、虚栄が何よりも力を持つことも知る。
その両方を持つ。ディオールは虚栄の力を何よりもよく知っていたし、それを何よりも強く引き出す術を持っていた。私にない力、ない価値観の世界だ。だから引き裂かれるように、そこに、痛みが伴うのは避けられない。
ディオールのサドルバッグを持つ女、シャネルの2.55(ボーイシャネルだったかも)を持つ女、どの女も高いバッグ持ってた。ギンザシックスからピストン輸送された面々だろうか。
あるいは凝った柄のワンピースを着ていたり、垢抜けないが頑張っておしゃれしているのがわかる服の人たち。
私も、高い服を着て、高いバッグを手にして行った。
ディオールのデザイナーとして飛ばしまくっていたけど人種差別的発言をしてクビになったジョンガリがマルジェラで復帰して発表したバッグ5ACを持って。(差別発言がもとでディオールをクビになって裁判で出廷という話題が過熱していた頃、日本は311が起きてそれどころではなかったので、私も彼のディオール追放の顛末ははっきり覚えてない)
ディオールでは贖えない世界の痛みが私の人生の半分くらいを占めていたけれど、年を経るごとにその割合は落ちていく。
半分はゴミで、半分は食べたもので、あとそれからなにがあるか。
なにがあるだろうか。
ディオールでは救えない世界から来た私にも、ディオールは美しいものを提示する。
それで救われる部分もあり、憎しみが沸くこともある。
レディディオールの部屋で、私は涙がぼろぼろこぼれた。
あまりの無為。これらのバッグが与える経済効果も、美しさも権威も、私には無為だ。私を省いて、それらは美しく豊かに渦を巻いている。
その渦に私はずっと不参加で、全然参加したくない貧困と搾取の貧相な生活には強制参加だった。
いまも、そこから抜け出し切れてはいないのだろうし、いつそこに戻ってもおかしくない恐怖がある。そうなったらそうなったで、貧相な世界で生きていく力はあるのだけど、美しい渦を巻いている世界を見てしまった後に、それができるかというと、気持ちが弱るところはある。
その、不安と恐怖のすべてが、レディディオールの部屋。
「お前はここに参加することはできなかった」とわざわざ言ってくるような。あの頃はなにも知らなかったし、何もなかったし、東京に逃げてくることと生き延びることだけでよかったのだ。ディオールなんかいらなかった。
でもそのままでよかったのかというと、そうではない。ディオールの意味が分からないまま死んでいくのは、何のために東京にいるのかわからないではないかとも思う。
ディオールに意味のない世界から、ディオールに意味がある世界に命をかけてきたのだから。二度と戻らない覚悟で来たのだから。
ファッションのクリエイティブはすごい、素晴らしいという話も聞くし、それを少し理解するところもある。
全身全霊をかけて美しいドレスをボロボロになりながら生み出す、というエピソードを持つトップデザイナーたちもいくらでもいる。
才能があって頑張っているから偉いね、すごいね、というなら、私だって才能があるし頑張っているんだから同じくらい賞賛されなくてはいけないだろう。
だから、才能があって頑張っているからすごい、という条件付けは間違っているのだ。
成功だとか、そういうことにそんな条件付けをするのは大間違いだ。
それに彼らが身を削るように美しく過剰に高価なものを作っているからと言って、私が助かるわけではない。
お前の身はお前の身、私の身は私の身だ。
お前の苦しみと私の苦しみは同じではない。
同じくらい削ったとしても、お前は巨万の売上を作り、プライベートジェットを飛ばしている。私は、預金残高を眺めて心を落ち着けようとしている。
似たような苦しみがあったとしても、同じような境遇にあったとしても、分かり合えることはないのだ。
バッグのひとつも買えず、2000円くらいのチケットを買って群がる貧相な者たちの悲しみ。「ディオールの値上がりえぐい」と言っているところに「わかる、コンシーラーとか値上げきついよね」とコメントしたのを「コスメの話なんかしてないのに」と突っ返されるSNSでのやり取りを目撃したけれど、4000円の化粧品でさえ高いと感じる人が、42万円のスカートなんか買うわけがない。100万円のワンピースを買うわけがない。ディオールの服は、そういう世界だ。
その価値があるのか。
そこは、「その価値がある世界であってほしい」というのと「その価値がない世界も同じく並走している」という両方の感覚が存在している。
美しいと思うものを無駄とかコスパとか考えずに贅沢に作り続ける部分が世界の豊かさを作っているし、同時に世界の貧困を加速させてもいる。
ただ、ディオールがなくなれば世界はより平和で美しくなるかというと、どうだろうか。
地球上の美しいものの総量が、少し減ることになるような気はする。
ジャン・コクトーがヨイショした気持ちも少しわかる。
同じように、私の痛みも、大切にされるべきだ。
レディディオールに入れて持ち運べるのは、そのくらいのものだ。
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