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現代アートの理解

現代アートって嫌い、という話はGoogle検索のサジェストで大体わかるかと思いますが、なぜ嫌われて、なぜそれでももてはやされているのか、全てがなんか謎だった。
でも、その謎はなんとなく、私の中では解けてきている。

芸術は自由であれ、という誤解

マジでこれが一番混乱のもとだと思う。

心のままに自由に、というのが芸術と言われるものに関する入り口で高らかに掲げられている。
俺は本当にいいことを子供達に教えてあげている!みたいな自己陶酔してる大人が芸術の入り口にいるゲームにおける「村人」みたいな感じで存在している。こいつ。
こいつが、我々無垢な子供達を美術&芸術迷子にさせた戦犯のひとりだ。

美術館に定期的に行き、西洋美術史などを薄ーく触っただけだけど、それでも「(評価されている)芸術は全然自由ではない」ことがわかってくる。

芸術は王侯貴族か巨大な宗教に支えられていて、庶民主導なものはとても少ない(ないわけじゃないし、弱いわけでもないけど)。
だから、歴史と文化を通り一遍でもいいから触っておかないと、理解がむずかしい。

ただ、そんな知識的な理解を差し置いて「すげえ!」「きれい!!」「やべえ!!」みたいな感動を伴うのが芸術たるものなので、文脈を吹き飛ばすパワーに引きずられて我々教養も学もない下々の者が、御威光を感じられる。
その威力こそ、芸術、アートなどが人類に重んじられている理由だと思う。

しかし、それは「自由」という概念がピッタリ当てはまるかというと、そういえるとはいえないにもなきにしもあらず、みたいな、ないとは言えないけどないよね実際、みたいな感じになっちゃう。

自由ではあるが、自由のためのものではないし、自由ではないことも多い。でも自由でもある。
日本人のNOの言い方みたいです。
つまり、NOです。

(ちなみに「難しい」は日本ではNOという意味だけど海外では多くの場合「難しいけどできる」と解釈されるので、翻訳&通訳の人がよく激おこしている)

そして実はものすごくはっきりとルールがあるのに、自由が重要だと言い出したやつがいるせいで、自由が大事にされてないからおかしい!という文脈でヘンなものをねじ込んでは滑っているケースを、ありがたく見させていただいて「そういうもんなのかー」と思っている、というのが、芸術教育の最初のほうにあってそれ以降進むことがないので、自分の言いたい事しか言わない協調性がない人間たちのパワーゲームにフォロワーとして巻き込まれてしまうのを避けるために、むしろ距離を置くみたいなことになる。

自由じゃないんなら自由だとか言わないでほしいよね!

現代アートがいつ出てきたのか問題

ここも、かなり、肝であった。
だって、今の私たちが想像するアーティストと、ルーベンス(ネロとパトラッシュが死ぬ前に見たいと切望した絵)やダ・ヴィンチや、日本で言うなら狩野派や長谷川等伯、雪舟などは、現代のビジュアルとちょっと乖離している。
作品だけではなくて、作り手像の差も大きい。
今のアーティストのイメージ👩‍🎨、こいつがいつから、そしてどこからきているのか。ここが実はすごく鍵だった。

まずは、絵描きのイメージできたのはフランス印象派の前夜。18世紀後半以後らしい。

言われるまで気が付かなかったけど、ベレー帽でキャンバスをイーゼルにかけてパレットを持ってる絵描きは、壁画描いてないよね。
でもミケランジェロとか、ほぼ壁画じゃんね。
ベレー帽で壁画描いてたとは思わないけど、画家のイメージ、ひいては芸術家のイメージって、あまりにあやふやだった。

この「制作者」のイメージは、理解の上でとても鍵だった。

まず、アーティストの個人の感性というよりも注文主のオーダーのほうが重要だった、という視点がなく絵や美術品を見るのは誤解が深くなるんだなって思います。
現代は個人の内面を表現していることを良しとしてそれを評価する、みたいな流れが「芸術」みたいにいわれているけど、それは割と近代のことだし、流派のひとつだし、さらに言えば流行みたいなものなんだという事がわかるまで、最初の「芸術は自由!」という村人的存在の人の言う事を黙って聞き入れていた。これが大間違いだったのだ。
とにかくあいつら、マジでいない方がよかったね!

どういう人が作って、どういう人の役に立って、評価基準はどこがどのようにだしているのか、というのは、ものすごく人工的にぱっきりと決まっている。なのに、実力があれば全世界が熱狂する、みたいなことをうっすらとみんなが信じているので、話が違うのだ。

芸術家は、技術屋で、単なる職人でもある。
それが、技術ではなく芸術として評価されるというステージの移動は、外から見ているとわからない。

でも歴史的に見ると、あきらかに現代アートに移行した時期というか、芸術だけではなくて、時代すべてがクラシックから現代モダンになった時期というのがはっきりとある。
1920年代がそのライン。

ここは、パリでピカソたちが大変盛り上がって芸術が熱かった時期だから現代アートの原点とカウントされているのかと思ったら、そういうことではなくて、近代武器を大量に投入した世界大戦が2回も起きたということの方が、「現代」のはじまりだったということらしい。

戦争が現代のはじまり。
最初は、その話はなんとなく心情的に受け入れにくい感じがあったけれど、アートではなくて別のインテリアの変化などを見ていると、あんな各国で様子が異なる建築とインテリアがどうしてアジアの東京や上海、ソウルなどとヨーロッパやアメリカで「ニュアンスは違うけど、大体同じ」スタイルになったのかという背景から、戦争のおかげで安く均一な素材と技術が発達してみんなに供給された、その結果衛生的で低価格で安全に暮らせる人が増えた、という事実は無視できなかった。
今の暮らしは、戦争の結果。
電気が行き届いて、上下水道が備わって、ガスなどもある。道は舗装され、医療が行き届き、衛生的な食べ物がある。私はこの環境でないと生きていけないことをとても強く自覚しているので、世界大戦きっかけでこの世が変わりましたーと言われると、「ありがとうございます」というしかない気持ちになる。

戦争が起きてほしいわけはないし、戦争の被害の悲惨さなんて聞きたくもないし、起きないように注力する必要があるけれど、すでに起きた過去の戦争に対しては、ありがとうございますっていうしかない。無力です。

その結果、今の我々の生活のベースができて、同時にアートも大きく変わっていった。だから、アートだけを追ってみていても、わからない事の方が多いし、逆に別の歴史を見ていると実にスムーズに納得できます。

急になんかよくわからない適当なものに高い値段がついてるんじゃないんだよ、みたいな。
歴史的な背景ががっつりあるよ、という点がないと、常に納得がないまま「これが…いい芸術…?……なんですね、すごいですね」と未消化のまま同調するはめになってしまう。

高価格問題

先日、村上隆の展示を村上隆が解説する動画があって、すごく面白かった。というか、彼が言っている意味が(割と抑えて一般向けにちょっとだけ愚痴る程度の小出し感だったけれど)なんとなくわかるようになって、やっと理解が追い付いてきたという感じがした。

芸術作品にバカみたいに高い値段がついて、芸術に関係のない一般人にとってはいい迷惑ぐらいのノリが世の中にある。
それに、そんなものに何億と値段がつくことに納得がいかなくて怒る人も、嫌悪感を出す人も多い。(嫉妬も大いにあるとは思う)
表現というものはお金で左右されては表現の純粋性がなくなるのではないか、という危惧。

そんなことが割と細かく繊細に対談という形から浮かび上がって、現代のトップアーティストが現状から「ちがいます」「そうじゃないです」「あなたの考えているレベル感とは全然違う世界なんです」と誤解を解こうとするやり取りが見られる。

これ、すごく面白かった。


私も大金持ちが何考えてんだろNA☆みたいなムカつき感はすごくわかるし、かといって彼らが個人的に悪い人間ではないという事も、そこそこわかる。
彼らのお金の価値観は、貧乏人のお金とは全然意味が違っていて、お金持ちはお金を使ってもお金が減らないもん。貧乏人は金が減る生活だけど、お金持ちは何を買ってもお金は減らないんです。その時点で宇宙の法則がちょっと違う世界に住んでいるわけです。

でも個人的には、「いうて信長もよくわからん茶碗を城と交換していたしな」と思い当たって、すとーんと納得した。
そういうもんだよなー、って。
いきなり現代の成金がわけわかんないものに金を突っ込んでいるのを見るとムカつくけど、古今東西普通の出来事なんだなって思うと、あっそういうもんかってなる。

芸術(特に現代アート)に関してのうっすらとした嫌悪感や拒否感が裏テーマの対談なので、お金や資本主義の悪い面との関りの話がとても面白い。
「お金のせいで自由な芸術表現が妨げられるのではないか」みたいな懸念についても、ごもっともな意見だけど、それは成長過程において育ち切っていない未熟者は注意すべきポイントだけど堂に入ったプロが気にするような事ではない、というのは、そこそこ作品を見ていると断言できるようになっていく。
村上隆が、お金でアートや表現がゆがめられるとかない、とスパッと平常心で断じたのも、理由がわかる。

子供の教育と、完成したアートを同じ土俵にのせて話してはいけないのだ。

これらの混同は、対談動画の中にも出てて、「環境活動家がゴッホの絵にトマトスープ缶をぶっかけるというパフォーマンス」を齋藤先生があれもアートでしょ?みたいに言うのを、村上隆が「違います。あれは芸術ではなく、環境活動家のアクション」とスパッと切り分けていた。
私もあのアクションが芸術なわけないだろという立場だけど、美術館でよくわからないルールから外れた動きをするのは現代的なアート表現だと勘違いされるのか、というのも、まあわかる。
逆に、日本の西洋美術館で現代作家が反戦アピールをしたのはアートの文脈だと思うけど、完成度によってアートかどうかがジャッジされる気がする。
アートかどうかは、主義主張の内容ではなく、どのように伝わったのか、ということの方に主眼がある気がする。

わからん問題

現代アートは、わからないと言われる。
わかる。確かにわからない。

現代アートの父的な、デュシャン師匠の便器にしても、わからない。
特にデュシャン師匠は、文脈と予定調和を壊すことに命を懸けているタイプの人格障害みたいなところがあって、みんな引っ掻き回され、もう1917年のニューヨークから遠く離れた2024年の日本でもいまだにうっすらひっかきまわされている。
これだけですさまじい威力。

でもですね、アート作品の実物を見に行ってみると………わかるんですよ素人目にも。うまい下手がわかっちゃうんです。
っていうか、素人目にわかるくらいじゃないと、表現としては弱いってはなしでもあり。

ほんとにわかるんですよ。
特に現物を見るとわかります。
印刷や動画などでは、輪郭や形の印象は知識として得ることができるけど、なぜその作品が評価されたのかまでは見えないです。
逆に、本物の前に行くとわかります。素人でも。

巧いやつを見ないとダメですよね……
素人に毛が生えたような作品を見て芸術を語るのは、玄人がやるやつで、初心者はそれこそ名の通った作品からです。

そうすると、本当にうまくないとダメなんだなって、めっちゃわかる。
ペンキ垂らしてるだけみたいなポロックも、なんか不思議な感じの絵をポップなベタ塗り使って表現してみたデ・キリコも、どうしてそんなつたない線で描くのかわからんピカソも、現物を見るとわかる。バキバキにうまい。信じられないくらいうまい。
気持ち悪いくらいうまい。

そして、うまいだけでは全くどうにもならない……というのも、わかってしまう。

うまくなくてはだめ、うまいだけでもだめ、ルールはないと言いつつものすごくルールがあり、自由だと言いながら守るべき規範が純然と存在し、そこをはっきりと教えてくれる人が、おそらく日本ではとても少ない。
最初の村人的な、自由な表現でいきいき!みたいな子供相手に自己陶酔しているおじさんおばさんばっかりになる。
そして、純粋に鑑賞者として楽しんでいる人たちは、それをそんなに語ったり人に伝えたりしない。受信してそこで終了する。
そうすると、高価格で取引されたとかそういう話ばかりがやっかみを含めて飛び交うことになり、そういう世界で目立たなくてはいけないと追い詰められた人がさらに変なことをして精神を病み、みたいな負の連鎖も起きていく。

アート鑑賞の時にその負の連鎖からスタートしてしまうのが、現状の日本じゃないかなーと思う。特にアートに興味が少ない、教育が行き届かない層には。

そういう人ほど、本物を見て「あっ……めちゃくちゃうまいわ……」と打ちのめされる経験が必要になる気がするし、そうしないと面白さが全然わからない。なにせ負のサイクルで始まると負に着地するから。

この動画で「わからない人にわざわざ説明するのは利益がほぼないからもういいや」と芸術家本人が言っているのは、仰る通りです…という気持ちになる。

日本人は、という枠でくくっていいのか謎だけど、「今の日本で生活している、どちらかというと貧乏で、無料で与えられたカルチャーをうっすら楽しんでいるだけの生活をしている人間にとって、納得する回答」というのを、芸術の枠に求めちゃダメなんだっていうのがすごく良くわかる。

対談では、今の僕がわかるように説明してほしい!という強いニーズがあるけど、芸術家は「それは未来が決める事」と放り投げちゃう。

アートは、歴史だ。
西洋美術史は、主にヨーロッパの歴史と、宗教の歴史(主としてキリスト教)を踏まえてみないとサッパリ意味が分からないけど、そこさえちょっと抑えるとパーッと理解が進む。
なにせそれをわかりやすく伝えんがために、あまたの芸術表現があるのだから。わかっちゃう。わからせ。キリスト教ってすごいんじゃよわかれ!みたいな。イエス様めっちゃ偉い、マリア様まじすげえ、みりゃわかんじゃん、みたいなやつの最高峰。だから、宗教的な理解がなくても、わかる。布教。

この「わかる」機能、「わからせ」機能が、ずっと同じだとやっぱ飽きるよねーってことでたまに邪悪に走ったり、変なことをしたり、逆にしたりというのが長い歴史の中で何度も起きて、現代は近代戦争を経ての現代モダンになったので、今までのやり方とは違うテクスチャーと表現手法がわんさか出てきたから、それらを使っていきたいよねーというのがここ100年くらいの話なのだろうなと思う。

芸術を理解するには、背景の理解からだ。
歴史的に、なにがあったのか。
新しい素材が発明されて普及したのか。
気候変動がどのような影響を与えたのか。
新技術は何を変化させたのか。
それによって何が廃れたのか。
社会問題はどういったもので、個人的な問題はどういう所に見出されがちだったのか。
そういう、作品以外の世界のこと、社会のことをどれだけ知っているかという事を競うのが、芸術鑑賞というスポーツなのじゃないかと思っている。

一般人の言うわからんというのは、鑑賞玄人には「いい試合でしたねー」みたいな意味になる。

現代アートの理解は、作品そのものの印象を目一杯受け止めつつも、背景たる歴史、文化、技術の進歩、それらに関わる人間の倫理観や道徳観、美的な感性の遍歴を重ねつつも、自分の感性と感覚をぶらすことなく、同時に目の前の作品に勝手な色を付けずにどれだけ主張したいものをまっすぐ受け取り、まっすぐ受け取りつつもその時の自分の内面にどんな変化が起きるのか、をまとめて感じ取るという、感受性と理解と自我のゲーム。

それを一気に、一瞬に行う、非常にタイパのよい遊びです。
タイパ=タイムパフォーマンス。
一瞬でわからせる表現を表出した作家の感性と表出技術を瞬間的につかむわけだから、他人のセンスや感受性をつるっと頂けちゃう。ありがてえことでございます。
ピカソもバスキアもモディリアーニも、ミケランジェロもラファエロも、デューラーもダヴィンチも、フェルメールもレンブラントもベラスケスも。

こういうゲームになってくると、美術館はとても楽しい。

そうなると、今度は、青田買いに行くのが、人間の常である。

知らない世界ほど価値があるとされる罠

わかってくると今度はわからないこと、知らない事がどんどん価値が出てきて、新人作家とか、知らない作家にアタックしていく流れは常に世にある。

ここでまたいろいろ課題があって、本当に好きなレベル感というのが存在している気がする。
レアなものが好き、といっても、「自分の周りの人は知らないけどバズっていたあれ」とかを「私ってレアなものが好きだから」と認識している人は結構いる。バズっている時点でレア度ゼロです。

好きなものは誰かとつながるためのもの、誰かと会話をするためのものだと思っている人も、本当に他人が好きじゃないものは選ばない。だって、ものが好きなんじゃなくて、そのものを介して発生するコミュニケーションが好きなのだから。

逆にそういう追随者や真似されるのが嫌になって、一点物やアンティークに行く人も結構いる。そういう人の話を聞いていると、どれだけ嫌な思いをしてきたのかなと思って、なんかこう、切ない気持ちになる。

つまり、知らない世界を知りたいといっても、本人が知らないだけで、ほかの人はだいぶ知っている常識なもののことを指している場合も多く、また自分でも知識のなさ、視野の狭さゆえにそれが超一般的な事だと知らないでいる事もよくある。

しかも悪い事に、そういう無知さが持つ自尊心をくすぐって、高いもんを売りつける手法が結構あって、その手法に悪意さえなく有効なスキルだと言って乱用している人もいる。
デマ情報でも相手の気分を高めるためならむしろいい事、みたいな。

アートの世界は、内面の動きを楽しむものだから、そういう所につけ込む動きはたくさんあって、金をとられたり、実害がなくてもよくわかんない変な女に友達だよ根みたいな感じでつきまとわれたり、ギャラリーストーカーおじさんのターゲットにされたりと厄介が結構ある。

そういうのは、ファインアートの世界になると、一般人や庶民はお呼びじゃないのでピタッとなくなるけれど、アートとデザインが好きです!みたいな感じの、生活にアートを!みたいなノリのところでは、そういうやつらが常にお互いイチャイチャしたりいがみ合ったりしている。
面倒くさいので、ファインアートを美術館に観に行くという、極めて庶民的なアプローチしかできない。たまに小さい個展をのぞくくらいで。

でもそれでも十分楽しいです!!!

生活から切り離すレベルのアート

先日DIC川村記念美術館に行って、「チマチマと生活にアートをとか言わないで、レンブラント・ファン・レインで叩きつけてくるファインアートの意味」をひしひしと浴びてきた。

ファッションとか見てると、アートの気配がかなり入っているブランドもあって、面白いなーと思う。でもあくまで服の範疇をはずれてはいけないという制約があるところが、またよいのです。
窓枠を首からかけてランウェイを歩くタイプのやつより、ちゃんと着れそうな「今年のラインナップです」みたいなタイプのほうが、そこに秘めた情報を読み解く面白さが大きい気がする。

ジュエリーも、装身具という時点でもうアートの役割に足を突っ込んでいる。が、ここの扱いをどうするか(アートに振るのか、視点の分散によって服のコーディネートの雰囲気をよくする部品として扱うのか)で、対応はずいぶん違うようになるなって思う。

ご飯だってアートだし(味、触感、見た目や盛り付け、香り)、お酒もケーキも、そうだ。
インテリアは言わずもがな。絵は部屋に飾るもの。

でも、そういう生活に関わるレベルの、易しいアートは日々の努力で簡単に手に入る。
それより、ちょっと普通のおうちには置けないですレベルのファインアートのほうが「いい試合」。

生活に芸術をっていうと、なんかこういう、有名な作品をパッケージに持ってくるパターンもよくある。

このアイシャドウシリーズ、絵画からインスピレーションを得た色づくりをしてるってことらしいけど、このゴッホのシリーズのアイカラーは大体解釈違いなので、違うーー!ってなります。
こういうのは二次創作の世界だから、解釈違いで揉めるのは世の常。

こういうチマチマしたのは、本物の絵画を見ると、なんか吹き飛んじゃう。
(それのかけらを手元に置きたいからといってグッズを買う事もあるけれど、結局本物じゃない事の方が際立ってしまう)

生活から切り離されるレベルの、アート作品。
じゃないと、それほど意味がない。

でも、生活を彩る仕事が無意味かといったらそんなことはないどころか、これからもどうぞよろしくお願いしますって感じだし、必要。
それを飛び越えていく存在、ということに、畏怖というか、天才の痕跡というか、それも一人二人じゃなくて複数の天才たちの存在があり、金があり、権力がありつつも権力を否定し監視するような、それでいて自分もその罠に落ちてしまい足の一本も失って、でも人間の持つ善良さなどは残り、かといって悪意は消えることなく、というのが、全部のせになっている「作品」は、結局のところどこかで誰かが必要としてしまうのだ。

その業のすべて。

そんなものは、生活の表面上に常にあったら困るわけで。
みんなうまい事マスキングして整えて隠している。

そのマスキングをやたら誇張してみたり、マスキングを取り外したりして、それはそこに存在させる。

というアート作品があって、それを鑑賞するという内面のゲームがあって、それを金と権力を持っている他者に操られながら鑑賞している。

そういう社会のアリみたいなちっぽけさ、愚かさ、価値のなさを自分に感じられるのもいいし、価値がない人間たちがこぞって素晴らしいと評する作品はそれこそ価値がないはずなのに価値があることになっているという構造を楽しむのもいいし、作品の形そのものを楽しみつつも、何重にも意味と効果を楽しめるところが、アートはお得だなと思う。


超楽しいよね。

つよく生きていきたい。