空間起点のインテリア、物起点のインテリア
今までインテリアは物起点で考えていた。
どんなカーテンで、どんな家具で、どんな色で。
どんな雑貨を並べて、どんなテイストの部屋にするのか。
そんな提案が多かったし、そんな提案に目を楽しませてきた。
でも実際には、間取りから考えて「うーん…狭いけどここにベッドかなー」みたいな、ものを空間にはめ込むみたいなやり方にならざるを得ないという感じだった。
物起点だから、物と空間が最初から別軸で、物があってちょっと不自由な空間がある、みたいな感じになっていたと思う。
ところが、本当に考えるべきは「空間起点」だったんだよね。
どういう空間なのか。
そこから、どういう家具をどのように置くのかが決まる方が、自然。
空間は変えられない。
そして、変えられない空間をある程度コントロールしていくのが物の力。
だから、先に空間起点で考えないと、物の力も発揮しにくい。
どちらかと言うと、物のために空間を用意するという文脈から、我々は物や空間との付き合い方を始めた。
「そこ空間広くとって、ものが際立つようにして」
「全部隠して統一感出して、空間を乱さない」
みたいな。
でも、「じゃあそもそもこの空間はどんな形で、どんな効果をあなたに与えています?」というところをパツンと切り離して、文脈のない突然のブルックリンスタイルの赤れんがをプリントした壁紙だとかが「おしゃれ」とされていて、なんとなく納得してないけどまあそこはおしゃれっぽいからおしゃれってことなんだろな、と自分を言いくるめる。
モンステラの鉢でも置けばいいのか、というと、またそうでもない。
唐突なおしゃれ感は、それもまたひとつの質量として、キッチンハイターとかコンビニの袋とかと同じように自分で文脈をつけてあげないといけない課題になっていく。
これが、物起点でスタートするインテリアの厄介さだと感じている。
物起点は、常に物の管理が必要だ。
逆に空間起点は、空間を管理する。
空間の管理のために物がある。だから物の管理を持て余すことが減る。目的のあるものは、浮かない。
ただ、スター家具みたいなものは存在する。
ボビーワゴンを置きたい!とか。
ワイチェア!とか。
それがある部屋、それがある空間が欲しいという気持ち。
それもわかる。魅力ある物、アート、完成度の高い家具は、「共に暮らしたい」とか「そばにいて」という気持ちになる。プリーズ、スタンドバイミー。アンド、テイクミーホーム。テイクミーホームカントリーロード。
君がいるから僕は。
みたいなやつ。あるよね。
そのために空間を用意しようとあがくのも、また道を開くのだろう。
でもな。カントリーロードばテイクミーホームしてくれないから歌になるんや。今ここの空間が、悲しくてもすべて。
物起点でここにない世界=空間を作ろうとするのは、どうしても無理がある。ハリボテになるし、とにかく惨めな仕上がりになってしまう。
嘘だけが、際立っていく。
その嘘と共に生きるのもまた生活なんだけれど……。
物起点から空間起点にパラダイムシフトが起きたのは、不思議なことだった。プロがどういう視点で空間をとらえているのか知りたい、という糸口~だったけれど、彼らは彼らで別のたくさんのしがらみにとらわれていて、彼らのルールを知らなければ話にならないし、ただの生活者の視点はそういう時には軽々しく踏みにじられる。なんだかな、という感じだ。
でも、ただひとつわかったのが「自分はモノを起点に考えていた」という事だった。空間から出発した考え、見方はしていなかった、ということに気が付いた。
おしゃれな家具を置けばいいのか。
工夫を凝らした便利な収納ができていればいいのか。
そういうことばかり考えていたし、そういう情報ばかりがあふれていて、そんなものばかり見ていた。
が、それらはすべて物起点であって、空間起点ではなかった。
空間起点での提案は、ぼんやりしすぎていたり、あまりに高度で専門的過ぎてむずかしい。
動線とか、そういう動きを加味した展開でなんとか人に理解を求めるような感じあたりが関の山だ。
空間について説明するってむずかしい。理解することもむずかしい。
空気は見えない、あると説明するのはむずかしいのと同じで。
でも「空間起点」で考えれば、いろんなものがスーッとまとまった。
まだまとまり切れていない部分もたくさんあるけど、モノの空気感に憧れて家具や雑貨を買って失敗する原因がよくわかった気がする。
(実際には買って失敗することをビビッて結局買わないので何も進歩しないという最悪な展開になりがち)
空間起点で考えると、自分がどういう空間にいるのか、その空間の良いところと悪い所はどういうところなのか、ちゃんとわかることが第一歩。
そのよいところと悪い所が、家具や物によってなんとかアプローチできる・改善できるという支配力&コントロール力が自分にどれだけあるか、というのが二歩目。
空間に対して自分は無力ではない、と分かると、空間起点での考え方が採用できるようになる気がする。
金がないといい部屋に住めない。
いい家具を買わないとおしゃれで心地よい部屋にならない。
そういう、空間に対するあきらめ(主に金がない事)からスタートして、空間に対する無力感か、物起点でなんとかコントロールしようという未熟な力業でハリボテと嘘を塗り重ねてウンザリしていくのか、それともちゃんとコントロールする力を伸ばしていくのか。ここの道筋について、実のところ誰も教育をしてくれなかったし、あまりにないがしろにされている気がする。
そして家を建てるという時に、突然そういうことに踊らされて大騒ぎして、デカいローンを組んで、躁状態になりながら言われるままにデカい買い物をする。
ちなみに、そうやって借金を抱えて人生を壊したのが私の親であり、そのせいでだいぶ人生が狂ったのが私の10代後半から20代だったわけだ。
なにもわかっていないで、言われるままに金をむしり取られる。
家とはそういう物。
そういう無力感が、そこまでではないにせよ、世の中には多く漂っている。
自分には何もできない、というのが、全員の心の中に、意思決定の中に、通底している。
だから、空間を起点に考えることはあまりメジャーな視点じゃないんだと思う。
DIYで棚を作ったり壁紙を貼ったりするのも、人気があるのは物起点のおしゃれなやつだ。
空間起点の考え方にいずれ移行するにしても、やはり最初は物起点になる。
最初から空間起点でいくのは、現代社会に生まれる限りむずかしい。
だけど、やっと私は空間起点の視点を得ることができたっぽい!
これは大進歩じゃない?
絵画を中心にアートを見まくって、自分なりの面白みや楽しさを伸ばしつつ美術史を触ったり、現代アートについてちょっとのぞいたりしたのが割と効いている気がする。
無力ではない。
そう感じることが、ものごとを把握するためにとても重要な鍵になる。
空間、住む場所、ひいては家という物に、私は人生そのものを大きく傷つけられたことがある。
父は自殺を図ろうとし、私は自殺させないために殺すことを考えた。
すべては家という物の中で起きたし、家という物が引き金だった。その後ろに金と、人間関係という問題があったのだけれど、家という物が作る空間は、それがないと生活ができないくせに、ものすごく恐ろしいものとして存在していた。私にとって。
私は家と空間に対し無力で、いつも無惨に手足をもがれて震えるだけで、なにもできなかった。実家を飛び出しても、自由で安心できる場所はそうそうなかった。なにせ金もなくてさ。でも帰りたいとも思わなかった。帰る場所なんて燃やしてきたのだ。さよならカントリーロード。帰れないカントリーロード。私は一生帰らない。その道はもうない。
でも、ここにきて、空間への解像度が急激に上がった。
上がってしまった、というべきだろうか。
見える時は突然にくるのだ。突然、なにも変わっていないのに、「見える」ようになって、世界が一変してしまう事がある。それが起きている。
空間起点で考えるインテリアは、まず「思ったより広いな」ということから始まり、モノが散らかっていても散らかっている理由がわかるようになった。
ごちゃっとまとまって情報がこんがらがっていた形(私はそれを神の山と呼んでいた。人跡未踏の地となるので)から、それぞれのものの理由と文脈がわかるようになった。
捨てるべきものがくっきりと見えるようになるし、確保すべき空間量もわかる。
恐るべき変化。
問題は、その認知系能力開花に対して対応力が追い付いてないってことですね。センサーばっかりよくなっても、ゴミをすえない掃除機みたいな。
この開花した能力を、これからどうしていくかは、新しい課題だなって思っています。
インテリアは物起点じゃなくて空間起点で考える。
テイストを定めることや動線や掃除&収納は、いわゆる枝葉の事なので、そこも大事だけど幹を見つけ根を探すことをやらないとずっと同じところを周回して消耗して終わる。
空間は、思い通りに行く事はまずない。嫌なことも大事なポイント。
物や動線&収納、掃除は、空間という変えられないものに対してアプローチするための力。我々は貧乏であっても無力ではない。家賃を払える限り。
空間にアプローチする方法は、意外にたくさんある。内装業者にならなくても、デザイナーズ家具を買わなくてもできる(貼る壁紙、照明、コンセントプレート)。
室内温度と換気=空調も空間としてとても重要。空気も物としてカウントすることになる。見えなくても、空間の中にあるものはすべて物としてカウントされる。
人間も、物としてカウントされ、ホコリや花粉やゴミもカウントされる。
それが空間起点で考えるということ。
室内履きが厚底サンダルの場合と、ぺらぺらバブーシュの場合でも空間起点でのインテリアは変わってくる。室内着が厚着なのか裸族なのかでも、空間起点で考えるインテリアは変わってくる。
その空間に何を入れているのか。
そこから、人間の行動に出やすいフォーカルポイントや死角を組み合わせた家具の配置、デザイナーズ家具やアート作品による芸術性での空間操作、適切な収納と人間関係をあたたかく安らかなものにする動線などが、その時その時によって適切に出現する。
ように導いて行けるのが、空間起点のインテリアだと思う。