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「昨日」が言えるようになった私の娘と、飯盛女/取材雑記

つい先日、2歳になる娘が「昨日」を使えるようになりました。それまで過去のことはすべて「さっき」だったのに。

言葉を覚える子供の様子には驚きます。生まれてわずか数年の幼児にとって、日本語は他言語ですが、自動詞他動詞、過去形現在形、副詞、助詞などスラスラと覚えていく。もっと成長したはずの中高生だった自分は英語に散々悩まされたのに。

「昨日」のような3音だけの単語だって、時間の概念がなければ使えない。習うより慣れろ式で覚えているだけで、文法は後付け的に分類・体系化していったものなのだろうけど、やはり驚きます。

ときどき「空が暗くなった」など、大人には当たり前のことを執拗に語りかけてきて閉口する時もありますが、「暗くなったら今日が昨日になる」と、文法や用語の概念を身体的に理解する段階なのかなと想像したりもしています。

ここ最近、飯盛女の墓を調べている私ですが、墓石の側面には出身国と享年(行年)が刻まれていることも少なくなく、中には10代半ばで没したものを見掛けると、単なる憐憫とも言い切れない名状し難い気持ちになります。

「○○信女 寛政○年 越後国蒲原郡○○ ○左衛門娘 俗名○○ 行年○○」

男親の娘と刻まれている事実は、見ようによっては家父長制の因習そのもので、所有物と見做された娘を売買した何よりの証左なのかもしれません。実際、父親と娼家が交わした証文は労働契約などではなく、実質的な人身売買契約ですが、父娘の関係性を因習のみに求めて、切って捨てる気持ちには到底なれません。

我が子が言葉を覚えようが構ってなどおれない生活苦から代々抜け出せない親、そうした環境で文盲に育った娘に与えられたものは、4文字ばかりの戒名。「アレ食べたいコレ食べたくない」と駄々をこねる私の娘と、甘やかす私。飯盛女の取材だ!などと鼻息を荒くして、歴史に学ぼうと意気込んでみたところで、一児の教育もままならない矛盾。

飢餓の過去と飽食の現代、どちらが良いか問われて、「食べ物の有り難みが分かった過去の方が良かった」などと手放しに礼賛する気持ちは湧きません。しかし現代が過去の連続の先にあることを思えば、現代を大切にすることと、過去を大切にすることは同義に思えてきます。

これまで信仰心のカケラもなく生きてきた自分ですが、娘の成長が喜ばしく思えるにつけ、これらの墓に巡り合うと手を合わさずにいられません。とはいえ、世間一般に言う「信仰心」が自分の中に芽生えてきているとは到底思えずにおり、不思議な気持ちを抱えたまま、飯盛女の墓の取材を続けています。

余談ですが、管見の限り、飯盛女の墓は楼主が建立していることも多く、現代人からみれば、この事実は矛盾に写るかもしません。「だったら遊廓など辞めれば良いではないか」と。確かにそうかもしれず、欺瞞がなかったとも言い切れません。いまだに解釈に悩む私は、尋ねた寺で同様の疑問を(失礼の無いよう心がけながら)ご住職に尋ねたりもしますが、消化できずにいます。

ただ、飯盛女の墓を巡るにつれて、先のように手を合わす私と、飯盛女を使役・搾取する楼主たちには、さほど差がないようにも思えてきました。

矛盾があるからこそ、祈り、願い、すがる。

ときに市町村史や、教育委員会が建てた案内板には「飯盛女の墓は楼主たちの信仰心の表れ」と紹介されることもあります。一方で、前述した矛盾を延長して「信仰厚い人物がなぜ遊廓経営を?」と、異を唱える向きもあるでしょう。

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神奈川県藤沢市の永勝寺に残る飯盛女の墓と、教育委員会が設置した案内板。娼家の「温情が偲ばれる」とある。

少しずつ言語化しようと努めている私ですが、この両者とも異なる解釈に立つようになってきました。それは次のようなものです。

矛盾と信仰は共存し得る。矛盾があって信仰がある。楼主たちの心の片隅に影を落としてきた矛盾が、墓を作らせてきた。いくら信仰に厚くとも、なんら心に影を落とさなければ、墓など企図しない。人生は先に矛盾ありきで、矛盾する心が信仰に整合性を求めるのではないか。換言すれば、矛盾が信仰を育む。

記録に残らない大多数の一般庶民は、時代のうねりに飲み込まれて矛盾を抱え、いびつな信仰にすがって、それぞれに人生観を形づくってきた。庶民の一人である楼主は飯盛女の墓を建てた。「人」という緯糸と、時代という経糸が織り合わさって、その末端に自分がいる。緯糸の一本が欠けても、現代は異なる模様を描き、私が思う「今」はない。

矛盾を抱え、いびつな信仰を抱えながら生きた過去の人々を自分に重ねて哀れみ、情を覚える。

※ヘッダー画像:倉賀野宿九品寺に残る飯盛女の墓。「彦左衛門娘すは 行年二十一才」とあった。(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)


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