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石という記録媒体/取材記(2022/10/11)/茨城県下野市

今日は日光街道・小金井宿(現栃木県下野市)を取材しました。日光街道沿いに「おきん桜公園」と名のついた墓所があります。公園といっても一般的に連想される公園然としたものではなく、ぱっと見、墓所そのものです。

ここに「おきん桜」があります。慶応三(1867)年、遊女屋・四つ目楼に押し入った強盗から飯盛女きんは他の人を守るため、身を挺して鉄砲の凶弾に倒れた。これを慰めるために墓を建て、桜も植樹した。地元有志が建てた慰霊碑には概略こう記されています。

おきん桜公園の碑と、おきんさんの墓。後ろの墓石群にも飯盛女たちの墓がある。(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

おきん桜と呼ばれる桜の木は、樹齢150年を超えた今も枯れずにあります。おきんさんの墓石は摩滅が進んではいたものの、それと分かる状態で残っていました。

妙鏡智覺信女、俗名きん、行年二十一才
(源氏名不明)

おきん桜の裏手にある、一塊になっている無縁仏らしき墓石群もよく眺めてみると、同じ小金井宿の飯盛女とみられる墓石も見つかりました。

即室妙蓮信女
明治二××八月三十日
柳屋内 多か女(たか) 二十一才

妙蓮信女
安政五年××
俗名とよ

秋室禅定門
奥州仙台御宮町(出身地)
俗名 桂治(かつや?)

戒名は完全に摩滅
越後××(出身地)
弥七娘 ふ世墓(ふせ)

おとよさんの墓。他の墓も摩滅が進んでいた。(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

おきんさん以外の墓も見つけることができましたが、こうして活字や伝承にも残されていない彼女以外の飯盛女の墓を見つけると、哀れさを覚える一方で、不思議とどこか満足感に似た感慨が湧きます。これは「発見」がもたらす満足感とは別個のものです。また後述するように「発見」でもありません。

改めて考えてみると、昔の人はなぜ墓の材料に石を選んだのでしょうか? 一般に手に入る材料の中で、石は最も硬い記録媒体だったからでしょう。死に際して、その人が生きていたという情報を永久に残したくて、昔の人はわざわざ苦労して石に刻んだのだと思います。(以前、私はご住職と反対の立場を取って、あえて遊女や飯盛女の墓をそれと伝えたいと述べましたが、これがその理由の一つです。当時の人は現代の私たちに残したい、伝えたいからこそ、石に刻んだのです)

しかし、彫りの浅さや石材によっては2〜3世紀で摩滅してしまった墓石も目にしてきましたが、自然風化以上に、私が思う最大の課題は、同時に日本社会が抱える最大の課題の一つ、少子高齢化です。仮に物理的に墓石が現存していても、語り部を失い、伝承が途切れてしまった地域を少なからず見てきました。また先日の木崎宿のように墓じまいがあります。(その意味でも、地元の教育委員会やその他研究機関には、無名の人たちが残したものも軽視せずに文化財調査の対象に加えてほしいと願います。著名なものほど残りやすいのですから)

そして、基盤産業を失った地域が、〝最後の賭け〟のように観光産業に望みを託してしまうことも以前述べました。これも、もとを辿れば少子高齢化が大きな原因の一つです。

私の力では少子高齢化に抗うことはできませんが、その過程で失ってしまう恐れのあるもの、すなわち見過ごしにされがちな〝諸芸に秀でない〟無名の遊女や飯盛女が生きていた証をもう一度、歴史の経糸に結び直すことはできるかもしれません。これをテーマに取材を続けています。

加えて、私のやっていることは、「発見」や、まして調査研究といった高尚なものではなく、石からネットへの情報の移し替えに過ぎません。ただ、いささかの自負を申せば、むしろそれこそに価値があると思っています。現代で最も堅牢な記録媒体は、本でもなく、SSDでもなく、インターネットに他なりません。今こうしてネットに載せることによって、(採録が間に合ったものに限りますが)彼女らが生きた証の一部は永久に残されます。そしていつか飯盛女に興味を持った後世の誰かの足がかりになれば、これに勝る満足感はありません。

いつかこの取材成果を本にまとめる予定ですが、本にする意義は、身も蓋もないですが取材コストの回収と、願わくば生活費と次のテーマに向けた取材費の捻出であって、本というメディアに過度に期待する気持ちはありません。本にすれば自動的にGoogle booksがOCR処理して情報がネットに永久に蓄積されるのですから。

おきん桜、来年の桜の季節に再訪してみたいと思います。

※ヘッダー画像:おそらくこれも飯盛女の供養する観音と思われるが、墓碑は摩滅して判読不能だった。(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)


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