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鯛よし百番を保全・修復するプロジェクトに協力することになりました。

私は、売買春の歴史を示す遺構や遺物を保存すべきと考える一人です。鯛よし百番のように『売春防止法』施行以前に使われていた娼家もその一つです。こうした考えを持つ私が、掲題のプロジェクトに協力する機会を頂戴しました。

関わる一人として、遊廓にまつわる歴史的遺構をどう残すべきか? なぜ残すべきなのか? について、以下の2点に集約して私なりの言葉に置き換えてみたいと思います。

・遊廓の歴史は「保存」にシフトする
・ポジティブな言い換えは、実らない

(売買春として表面化する社会問題を便宜上「売春」ないし「売春問題」と書く。また断りのない限り、売春問題は売防法公布以前から施行直後の時代を前提とする)

消える娼街の名残り

売春問題の解消を推し進める過程で、問題の本質ではないものの、周辺にあるとの理由から、その流れに巻き込まれて姿を消していった様々なものがあります。「周辺」の具体例は、娼家を始めとする建造物や、無形である言葉などです。明快に売春を禁じる単独の法律である売防法が公布された昭和31年から令和3年現在までの65年間に、多くの周辺が消滅したと推察しています。

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<2013年撮影。東京都の旧赤線。訪ねると取り壊しの真っ最中だった。「OFF LIMITS」は性病の蔓延を理由に米兵の立ち入りを禁じた敗戦直後のもの>

旧娼家が消滅していった理由は、同法が管理売春を厳罰化したことで娼家から経済的価値を奪ったという帰結から当然としても、経済性のみならず露骨に売春を連想させる造りへの忌避もあったことでしょう。閉鎖性や拘束性を連想させる建造物の一つである門柱なども同様だったと推察します。

形あるもの以外も姿を消していきました。すなわち地名などです。東京の事例では、かつての吉原は現在の地名に存在せず、台東区千束の一部となっており、洲崎は江東区東陽1丁目に、東武伊勢崎線・玉ノ井駅は東向島駅へと改称しました。

こうした理由以外にも、旧娼家の古い造りが現代的な生活に不便であるといった実用上の理由や、風化した建造物は倒壊の恐れがあるといった防災上の理由など、売春問題とは関係のない理由もありますが、いずれにしても「保存」とは無縁で、売春の歴史を示す遺構や遺物は、消滅の一途にあるのが現在です。

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<福島県郡山市にあった遊廓に残されていた門柱。この門柱は、平成23年の東日本大震災による損傷を理由に撤去されたことが(典拠不明であるが)wikiに記述されている。写真は木村聡『色街百景』(彩流社)より引用>

娼街の名残りが消えるのは寂しいか?

私は遊廓専門の出版社や書店を営んでいるためか、遊廓が持つ歴史や文化に好意的・肯定的な声に接する機会に恵まれています。そして娼街の名残りが消えていく現状を指して「寂しい」といった感想から、「形式主義的になくすのは欺瞞だ」といった非難の声を聞く機会が少なくありません。しかし私は、歴史の周辺も消滅していく現象は、売春問題を解消する過程で避けられなかった道程であったと考えています。

出自や居住地を理由に差別を受ける、あるいは、かつての職業を理由に本人やその子が差別を受ける、ということはあってはならないことですから、これを避けるための方途として、地名変更にしても当時の現実的な落とし所だったと思います。この時代的限界を課題に活かすことはあっても、当時の地域住民を責める気持ちは湧きません。(東向島に駅名が変更された理由は、差別問題よりは鉄道会社のデベロッパー的戦略だったと推察しますが。)

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<旧洲崎遊廓の事例。行政側は地名「洲崎」を残そうとしたが、住民の反対にあい、町名変更となった経緯を報じている。元経営者が「女郎屋のオヤジ」と侮蔑され、また、管理売春業という親の前歴が進学の障害になったことも。『読売新聞』(昭和56年4月27日付)より引用>

消すことは解決にならない

ただし、先に挙げた家屋、建造物、地名などは、問題の本質でないことも同時に強調したいと思います。仮に遺物や遺構など周辺を消し去り、どれだけ不可視化しても、問題そのものは解消しません。むしろ不可視化したことによって、後世へ継ぐべき教訓が断絶し、解消に努めたはずの過ちも振り返ることができなくなってしまうからです。

売春問題に限らず、社会問題を抱えてきた他の様々な歴史へ視野を広げてみると、むしろ問題の周辺を残すことで教訓を後世へ繋げ、発展的な解消方法としてきた運動の跡が見えてきます。

やや唐突のきらいはありますが、社会問題とその解消方法について、世界的に知られる黒人差別を例に挙げてみます。同化政策を用いて差別対象の黒人をなくすことが、当然のことながら差別解消には到底なり得ません。なくすべき対象は差別意識や、そこから生まれてくる差別的な社会環境です。黒人たちは「Black is beautiful」と主張に転じることで、自らの存在だけではなく、彼らが有する歴史や文化が当たり前に存在する社会を目指しました。

売春問題に置き換えれば、売春のかたちをとって表れる問題の根源(例:貧困や性差別)に対処することが本来であり、娼婦や経営者の存在、さらには娼家といった歴史や文化の痕跡を消すことが、根本的な解決手段ではないことは自明です。

あるタイミングから、「保存」へと軸足が変わる

このことからも分かるように、社会問題を抱えてきた歴史を扱おうとするとき、逆説的ですが、問題が解消傾向にある場合、どこかのタイミングで「消滅」から「保存」に軸足を移す必要があります。なぜなら、問題があったことすら失われてしまうからです。娼家もその例に漏れません。(「活用」ではなく「保存」が主体であるべきと考えますが、この説明は、またの機会に譲ります。)。

前述したように、これまで「保存」という意識が希薄であったり、巻き込まれて消失して行く流れにありましたが、近年では意識的に各地の娼家が保存・活用される動きがあり、またそれをメディアが報じるなど、少しずつ潮目の変化を感じるようになりました。

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<2021年6月25日の『読売新聞』に掲載された娼家の保存・活用例。全国紙がこうした事例を伝え始めた>

鯛よし百番の保存プロジェクトが今後を占う

鯛よし百番が他の娼家と異なるのは、多くの人々に認知されており、象徴性が非常に強いということです。保存に成功するか、万一失敗するかで売春の歴史の残し方を左右するような存在だと考えています。

これまで、娼家を保存する意識が希薄だった中で、今回の鯛よし百番プロジェクトは、まさしく軸足を移すタイミングに差し掛かっていることを示すプロジェクトだと私は考えています。

ここで余談ですが、私は最前から売春「問題」との言葉を用いていることに触れます。中にはこれに違和感・拒否感を感じる人もいるかと思います。「遊廓は負の歴史とは言い切れない」とする主張です。確かに近年では経営者と娼妓(遊女)との間に一定の信頼関係があった実態を示唆する研究も進みつつあります(※1)。ただし遊廓(公娼制度)は当時の国際法・国内法に照らして不法な状態(※2)であって、各人の善行は、あくまでも負状態の中におけるグラデーション・まだらに過ぎません。そして何よりも見誤ってならないのは、「悪い者探し」をするのではなく、非難するのであれば、それを許した体制や構造に厳しい目を向けるべきです。

「負の歴史」を残すことに懐疑的な考えを持つ向きがあることも、もちろん理解しています。「忌まわしいものは消すべきだ」と。ただ、そうした疑問には、悲劇の遺跡に他ならない原爆ドームやアウシュビッツ収容所をあえて残している事実について、改めて思い出して欲しいと願います。人が住まう地域、住居をナチスやアウシュビッツ収容所に喩えるな、と怒りを買うかもしれませんが、体制や構造が問題の本質であることを、もう一度繰り返します。このことについては改めて後述します。

鯛よし百番に注目が集まるのは「歴史の喪失」の裏返し

さて、冒頭述べたとおり、家屋をはじめとする多くの名残りが消えていきました。私はおよそ10年にわたって、遊廓や赤線と呼ばれた、様々な形態の娼街を撮影取材してきました。その中で実感したことは、こうした娼街特有の街景を残しているエリアは極めて少なくなっている現実です。しかも、そのことには必ずしも多くの人が気づいていません。

戦前に遊廓と呼ばれた街は、公的な資料では586カ所(明治14〈1881〉年)が確認できます(※3)。戦後には増加し、赤線をはじめとする多様な形態の娼街は、1,868カ所(昭和31〈1956〉年)にものぼっています(※4)。娼街は国土に偏在しており、ある一時期までは珍しくない、ありふれた街景だったことでしょう。

売防法後の娼街はどうなったのか? という変化を長期的に追跡した公的な調査などは存在しないので、私が取材を通して得た肌感覚しか頼る術はありませんが、現在の多くの旧娼街では娼家は取り壊され、更地、駐車場、現代住宅などに置き換わっています。

私はたまたま全国の娼街を訪ね歩く経験があったため、街景が消えつつある状況に気づくことができましたが、実はこうした経験がなくとも、少なくない人が鯛よし百番は極めて珍しい状況に置かれていることに薄々気がついていると思います。だからこそ鯛よし百番に注目が集まるのです。好奇の目、建築学や歴史学からの目など様々な目線はあれど、いずれにせよ、鯛よし百番への注目ぶりは「歴史の喪失」の裏返しです。

付言すれば、鯛よし百番は当たり前に存在してきたのではなく、これまで多くの人の知られざる努力の積み重ねがあって初めて存在し続けており、今回のプロジェクトもそうした人々の想いを継ぐものです。

売春にまつわる過去の歴史に対する意識に大きな変化が訪れなければ、私たちは実物という手触りをもってかつての娼家や娼街に接することのできる最後の世代になる、と予測しています。

今回のプロジェクトを通して、私たちには売春の歴史を残す価値について考える機会が与えられています

鯛よし百番を保全・修復する意義や価値は何か?

「価値がある建物だから、残す価値がある」「素晴らしい建物だから、残すことは素晴らしい」は、思考停止です。加えて「登録有形文化財だから残す価値がある」も、価値基準をお上のオーソライズに委ねていることを指摘します。

ここでは「旧娼家が持つ歴史的価値をどう言い表すか?」という、非常にセンシティブな課題に対して、これまで用いられてきた手法を振り返ってみたいと思います。

結論から言えば「ポジティブな言い換え」という手法が頻用されてきました。『登録有形文化財』に登録されている鯛よし百番も、文化庁の「国指定文化財等データベース」で検索してみると、「大阪歓楽街の殷賑を色濃く今に伝える」と解説文が添えられています。

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<国指定文化財等データベースより>

こうした手法は、鯛よし百番に限らず、各地の娼街跡に建てられた自治体による碑や案内板で、「繁栄の面影」に代表される文脈を用いて伝えている現状からも見て取ることができます。

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<東京都の吉原遊廓跡に建つ、台東区教育委員会による案内板。「遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼を」担ったとあり、ステレオタイプな表現が分かりやすい>

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<富山県魚津市。こちらは「風流、優雅」との文脈で説明している>

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<広島県大崎上島では、遊廓であった過去を伏せて「古い町並み」とだけ紹介されている>

一例を挙げたましたが、ポジティブな言い換えに限らず、大崎上島での「古い町並み」に見られるように不可視化もあり、対応は様々ですが、「ポジティブな言い換え」も不可視化の一形態と考えます。

繁栄の一面であることは間違いない

まず断っておきたい点は、遊廓を含む娼街が「繁栄の面影」とする見方に、私は反対しません。その理由を遊廓の立地条件から見てみたいと思います。近代に遊廓が形成されたエリアの立地条件は、以下に分類されます。(※5)

①近世から飯盛女を置いた宿場町
②外国人居留地
③近代以降の産業発展・交通の要衝の地
④軍隊の駐屯地
⑤植民地都市

(公許であった遊廓以外にも密かに売春営業を行っていた私娼街も存在したが、これらの多くは遊廓周辺に形成されたり、遊廓の代替として黙認されていたことから、遊廓以外の娼街も上記分類に準ずる)

この分類から分かるように、こうしたエリアには大きな経済発展や、さらには独特の文化がもたらされた歴史的経緯は多くの人が知るところです。娼街が「繁栄(文化)の証」「繁栄(文化)の面影」「繁栄(文化)の名残り」と、「繁栄」や「文化」を文脈に伝えることは、決して間違いではないと考えます。「ただし一面に過ぎず、その一面のみを強調することが相応しいのか?」といった検討こそが、その歴史的価値を一般化・普遍化させる上で重要であることを、以下に説明します。

ポジディブな言い換えは片手落ちである

「繁栄や文化は後世へ残すに値するものだが、歴史はそもそも多面性や両義性を有するものであり、悲劇性の強い歴史について『光』だけを伝えるポジティブ化は片手落ちである」というのが私の主張です。その理由は以下の2点あります。

上記分類を見れば明らかなとおり、立地地域の多くには経済や文化的発展をもたらしたと同時に、その繁栄の奥底には、負の歴史が底流していたことは多くの人が知るところです。

例えば「古き良き街景を残す」としばしば紹介される宿場町も、街道の賑わいを下支えした飯盛女は近郷から人身売買されてきた女性たちです。現代でこそ異国情緒を謳われる開港地(外国人居留地)ですが、外国人と日本人の接点に緩衝地帯を設けるため女性を差し出した歴史を抱えています。また、このことは幕末維新期から1世紀ほど下った戦後の進駐軍向け慰安所にも繰り返し用いられた発想です。今や明治日本の栄光として専ら称揚される近代産業遺産があったエリアには、下層労働者向けに娼街が用意されたり、そこに従事する女性は朝鮮半島から連れてこられました。交通の要衝には北前船の寄港地が挙げられるでしょう。日本海の情緒やロマンと重ねられる北前船文化ですが、ここにも娼街がつきものでした。明治時代に各自治体は兵営の誘致合戦を繰り広げましたが、誘致理由の大きな一つが地域振興であり、防疫の観点から軍隊には遊廓がつきものでした(※6)。

西洋の先進資本主義諸国や日本が推し進めてきた近代化は構造的に「負」を有しており、人為的あるいは一個人の恣意的な範疇を超え、条件さえ整えば、場所と時間を越えて再現されるものです。工業化、帝国主義、資本主義、科学万能主義といった近代化を突き進む中で突き当たった壁、ないしその影にあった負の一つが、売春問題でした。「誰それが悪い」というミクロな加罰的視点よりも、体制や構造に目を向けるべきなのは明らかです。私が最前から、「悪い者探し」をするのではなく、体制や構造に目を向けるべきとする主張の理由です。

2点目の理由は、一見、共感と理解を生み出しそうな(生むことを企てるための)「ポジティブな言い換え」が、むしろ分断を生んできた事実があるからです。

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<『朝日新聞』(平成16年10月20月付)>

平成16年に愛媛県であった事例を挙げます。まちづくりを目的とするNPOが市の助成金を受けながら、愛媛県松山市にあった娼家の活用を企画したところ、市民グループらが「公娼制度の礼賛」として異議申し立てを行いました。その後に計画が実現せずに、肝心の娼家(文中の朝日楼)が取り壊された事実からすると、計画は頓挫したようです。活用を目指したNPOの主張にみられる「にぎわい」という文言は、まさに「繁栄(の再現)」を文脈としています。

「公娼制度の礼賛」と異議申し立てを行った市民グループを、ある種の横車と見做す向きがあるかもしれませんが、私はそうは考えません。そもそも鋭い意見対立は、健全な言論環境だからこそ実現するものであって、それ自体否定されるべきことではないからです。

こうした事例に見られるのは、ポジティブ面のみに光を当てようとしたことによる「分断」です。公金を投入するのであれば、当然、活動側に市民へ理解を求める努力が求められますが、その手法としてポジティブな言い換えを用いても「理解や共感を広げず、むしろ一定の限界をつくりだす。視座が一つに頼っているため、これを否定されると存在意義が揺らぎやすい」ということを、この事例は如実に示しています。これは、遊廓の歴史文化を好意的・肯定的に捉える側がはまりがちな、大きな落とし穴です。

こうした事態に直面すると、「遊廓の歴史的価値や、文化的価値が分かる人だけが理解すればいいのだ」という考えも生まれてきます。しかしそれも悪手です。「分かる人だけ分かればいい」という開き直りは、遊廓という歴史の一面を「一部の好事家たちのもの」というように価値を矮小化させるからです。価値の普遍化・一般化ができないのです。

やや観念的な話に傾いてしまいましたが、次は、もっとも実践的な場といえる「観光」に視点を移してみたいと思います。

ポジティブな言い換えが観光に何をもたらすか?

観光にも様々ありますが、最大の観光効果をもたらすのは、官民一体となって振興を目指す「ユネスコ世界遺産」であろうことは、多くの人が異論を差し挟まないと思います。

平成19年、石見銀山(資産名:石見銀山遺跡とその文化的景観)はユネスコ世界遺産に登録されました。登録された翌年の平成20年には80万人もの観光客が訪れたのをピークにして、その翌年には50万人、平成27年にはピーク時の半分以下である30万人に落ち込んでいます(※7)。もちろんこれはコロナ禍以前のデータです。そして、石見銀山の展示には、鉱山にはつきものである鉱毒被害や、過酷な労働環境といった負の歴史について「全く言っていいほど触れられていない」と、『悲劇の産業遺産』(文藝春秋)の著者である井出明氏はその著作の中でレポートしています。加えて井出氏は、観光客が激減しているのは、「光の歴史のみで地域を見せている一種の『虚構性』に原因があるのではないか」と指摘しています。

歴史の両義性を無視して、「光」に偏った見せ方が観光としてもパフォーマンスを発揮しなかった分かりやすい実例です。もちろん、石見銀山への観光客の落ち込みの理由として、アクセスの悪さや宿泊施設の少なさなども挙げることができますが、物事の順番としてはまず魅力の存在ありきで観光インフラが整えられるのであり、インフラが整えられれば、自然と魅力が醸成されるものではありません。

歴史的価値は「誉れ」だけなのか?

「自分たちの歴史文化をアピールする以上、『地域の誉れ』を発信するのが当たり前では?」と見る向きもあるかと思います。ただし、ユネスコの世界遺産の登録基準は必ずしもそうではありません。以下は世界遺産の登録基準です。

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<世界遺産の登録基準。日本ユネスコ協会連盟のサイトより>

文意が汲み取りづらいですが、突き詰めれば「人類の普遍的価値」に集約されます(※8)。そもそも「普遍的価値」も分かりづらいですが、民族・国家・宗教が違っても「戦争は悲劇である」「人身売買は悲劇である」という価値観は揺らぐことがないことからも分かるように、負の歴史も普遍的価値の一つであり、登録対象になり得るということです。実際、昭和53年に最初に世界遺産に登録されたのは、西アフリカのゴレ島であり、これは奴隷貿易の場所です。続く第2回の登録には、アウシュビッツ収容所が選ばれました。世界遺産たる対象には、光と影の両義性が含まれているのが本来です。

こうした歴史的遺産が「地域の誉れ」とイコールで扱われた顕著な事例が、安倍内閣の官邸主導で2015年に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業」(いわゆる「明治日本の産業革命遺産」)です。政府が作成した世界遺産推薦書ダイジェスト版には「テクノロジーは日本の魂」「蘭書を片手に西洋科学に挑んだ侍(さむらい)たち」と説明されていましたが、同遺産の見せ方は賛美に傾き、戦争、植民地支配、労働に関する記述は希薄であると専門家は指摘しています(※9)。その結果、韓国は世界遺産に反対し、日本政府は登録期間を韓国併合以前の1910年以前に切り上げるなど、拘泥のすり合わせに苦慮しました。(のちに世界遺産推薦書ダイジェスト版は改訂され、「テクノロジーは日本の魂」との表現は消えた)

国家という考え得る最大の主体によるポジティブ化が、国家間の溝を深めるという最大の分断を生んだ事例です。

娼家が持つ普遍的価値

これまで、ポジティブな言い換えが功を奏しないことを説明してきましたが、「では、あれこれと指摘するお前が、娼家の価値を説明しろみろ」との鋭い指摘がディスプレイの向こう側から聞こえてくるようです。

他人の言葉に寄り掛からず、私なりの言葉に置き換えてみようと試みたことがあります。それは自著『遊廓』(新潮社)に書いたので、是非そちらをお読み頂きたいのですが、せっかくなので引用してみます。

遊廓の魅力について、例えばこう言い表されるのをよく見かけます。「贅沢に建材を用い、技巧を凝らして仕上げた、絢爛豪華な意匠」と。(中略)

材料の質、加工技術、それらの組み合わせが贅沢であるほど、突きつめれば資力の差だけ私たちは美しく感じるのでしょうか? もしそうだとしたら、遊廓などより資本を投じた豪商や豪農の住まい、寺社仏閣などの宗教建築、官公庁舎や銀行などの近代建築は枚挙にいとまがなく、それらを前にして遊廓は美しさを失います。

(中略)

私は今、遊廓の美しさについて、こう考えます。
──娼家の建築様式は継ぎ接ぎであり、一見した美しさは虚飾に過ぎない。しかし虚で隠された実の部分、すなわち男と女、富と貧、善と悪、愛と欲、嘘と誠、対になって意味を成すこれらは、いつの時代にも私たちが答えを求めて止まない価値の源泉であり、娼家はそれを感じたり学んだりできる唯一の建築である。

本来、同居するはずのない対極にある価値(しかし同時にそれらは人間らしさを形成するそのもの)が一対となっている空間、それが娼家だと考えています。

ちなみに、これについて多くの反論を貰いました。色々ありましたが、多くを要約すれば「性搾取の場であった遊廓(娼家)に愛や誠なんて存在しない」というものでした。

しかしそれはあまりにも視野が狭すぎないでしょうか。子を売り渡さなければ生きていけなかった親の心はどうでしょうか? 胸が引き裂かれるような愛の関係性を前提としながら、打算も同時にあったと私は思います。しかしそれも何度も述べているように構造的な問題であって、代々背負わされた負の連鎖によるものです。また、経営者は搾取主体というステレオタイプな印象がありますが、経営者の家族にたまたま生まれ落ちて業を背負わされた子はどうでしょうか? それを背負わせた親はどうでしょうか? 娼妓(遊女)を身請けして夫婦となった男女の話も聞書などの記録に残されています(※10)が、これも弱者同士が求める連帯意識とすれば、何と呼ぶべきなのか。

これらをどちらかに裁断するのではなく、両義性を持たせたまま理解することが、私は大切だと考えます。清濁併せ持つように、多義的なのが、人間だからです。そうした人間が交錯した場が娼家です。

「普遍的価値」に話を戻します。

遊廓に限らず、歴史的遺跡・遺構・遺物に共通する普遍的価値は「学び」であると私は考えます。私が「学びが大切なのだ!」などと大上段に振りかぶらずとも、皆さんは生活レベルでとっくにそのことを知っているはずです。せっかく楽しみにしていた観光地を訪れると、「ああテレビやネットで見たのと一緒だな」と、心のどこかで興ざめしてしまう経験はないでしょうか? そして、そうした観光旅行は「行った経験を持ちたい」という、ある種のスタンプラリーに過ぎず、残された僅かな楽しみといえば、グルメに落ち着いてしまいがちです。

こうしたことが起きる理由は、「光」の情報はテレビや雑誌、近年ではネットというメディアが伝えるのを得意とする情報だからであり、本来感動的であるべきリアルな訪問を、「メディアで得た知識の再現」に矮小化してしまうからです(グルメが最後の楽しみになるのも、味覚はメディアが伝えることを苦手とする情報だからです)。テクノロジーが日進月歩で進化しつつあるネットでは尚更のことで、VRが高度に進化した先には、リアルな体験が「VRと同じに過ぎない」という逆転現象さえ起きることでしょう。

リアルな訪問体験が乏しくなる理由は、そこに「学び」がなかったからです。反対に実地に訪れてみて、メディアからの情報では気がつかなかった経験を得られれば、驚きという喜びや感動に変わるのは多くの人が経験していることだと思います。

「学び」とは何も、本や学校で得られる情報だけではなく、もっと深いところで感じる心の振る舞いも「学び」と言えるはずです。頭では「貧困が原因で性搾取された可哀想な女性がいた」(逆に「逆境に抗って身を立てた花魁がいた」でも良いです)と理解していても、実際に使用された娼室に立ったときの感慨は、絶対にそこでしか得られない体験です。その体験は、遊廓の歴史を「もっと知りたい」「人にも伝えたい」「残したい」といった根源的な動機に繋がるものだと思います。(誤解を与えたくないのは、本や学校での学びが無駄だとは、全く思いません。逆に本や学校で得た知識を前提としたからこそ、より深いところへ到達できたのだと思います。知識がなければ、その場に立っても得られる感慨はないでしょう。飽くまでも両輪です)

私はこうしたことが娼家が持ち得る普遍的価値だと考えています。

最後に

負の歴史が持つ普遍的価値は強烈な教訓になります。このことについて思い出すのが、我が国におけるハンセン病の歴史です。戦後には特効薬が普及していたにもかかわらず、戦前から続く国策や社会通念のもと差別が続き、重監房での身体拘束、強制的な断種、独自通貨による逃亡防止など、あまりにも悲しい差別の歴史を背負っています。こうした政策について、国が患者に謝罪したのは、ようやく2000年に入ってからのことです。

翻ってコロナ禍の昨今、いわれのない人々へ向けた差別的な言動が浮き彫りとなりました。私たちが過去に行ってきた、ハンセン病患者への差別という、紛れもない負の歴史を普遍化できていればもっと違ったかもしれない。昨年、東村山市にあるハンセン病患者療養施設・多磨全生園を訪ねたとき、そう回想せざるを得ませんでした。国の謝罪からおよそ20年間、私たちは何を学んだのか。

私はハンセン病の歴史について、ここを訪ねるまでほぼ無知に近い状態でしたが、そんな浅学な私でも多磨全生園の住居跡に立ったときの感慨は言葉では言い表せないものでした。ここで人生のほぼ全てを過ごし、そして亡くなっていった元ハンセン病患者の人生はどのようなものだったのだろうか──

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<全生園に残る患者の住居(復元)。患者同士の結婚は認められていたが、夫婦向けの住居は用意されなかったため「通い婚」がされていた。プライバシーのない性生活を強いられていた。また結婚が許されていたとはいえ、断種が強制された>

強調したい点は、同園に併設された国立ハンセン病資料館は、本来、患者を保護すべき施設側が患者に対して行った加害の歴史についても、隠し立てせずに勇気を持って伝えている点です。言うまでもなく、加害の歴史を伝えているのは、加害者を断罪する目的ではなく、ハンセン病が抱えてきた悲しい歴史を通じて、差別を断ち切ろうとする強い願いです。

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<現在、全国に点在する複数のハンセン病療養施設などによるNPO・ハンセン病療養所世界遺産登録推進協議会が世界遺産登録に向けて活動している>

ハンセン病資料館の展示が「患者たちの不屈の闘病生活」とだけ紹介されていたとしたら、あるいは、負の歴史との理由でハンセン病資料館がそもそも存在しなかったら、私たちの過去と未来に対する姿勢はどうなるでしょうか。

当プロジェクトへのご支援よろしくお願いいたします。

◇参考文献---------------------

※1 山川均『又春廓川本楼、娼妓『奴』について』
※2 日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会編『性奴隷とは何か: シンポジウム全記録』
※3 大日向純夫『日本近代国家の成立と警察』
※4 労働省婦人少年局編『売春に関する資料 第2号』
※5 小野沢あかね「近世遊廓の再編と近代公娼制度の展開」
※6 松下孝昭『軍隊を誘致せよ』
※7 島根県太田市・産業振興部観光振興課編『大田市新観光振興計画』
※8 井出明『悲劇の世界遺産』
※9 竹内康人『明治日本の産業革命遺産 強制労働Q&A』
※10 竹内智恵子『昭和遊女考』

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