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遊廓とロマン 〜「自由な感性」は自由か?〜

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〜3月16日 10:00

遊廓とロマン

遊廓建築の設えにロマンを覚える人は少なくないのではないか。私もその一人である。ロマンを覚える設えにはステンドグラスや階段の手摺り、ダンスホールなどがあろう。事実、Amazonで遊廓関連のビジュアルブックを見渡せば、読者が期待するロマンと接合させた企画の本をいくつも見出すことができる。いっぽうで、ロマンに抗いたい気持ちも私は抱えている。本稿ではこの抵抗感について考えてみる。

東海地方の遊廓史を研究する「東海遊里研究会」を共宰する、ことぶきさんが以下と投稿なさっていた。このポストが本稿を考える出発点になった。感謝しつつ引用したい。

ロマンを覚える一つ、ダンスホール。背後に流れる音楽に身を委ねて男女が優雅に、あるいはひと皮下に情欲を忍ばせて身体を揺らせたといった連想をさせる。が、ダンスホールにダンスの実態がなかったことを指摘している。事実を知ることで、やや虚しくもなる。

感性は自由だ

実態を知らされてもなお、個人の感性は自由だ、と言い募ることもできる。ここでは、しかし、と続けてみたい。やや遠回りとなるが、戦前昭和期から戦後における公娼制度の再編成を再確認する。

1932年(昭和7年)に国際連盟下の調査団が日本における公娼を調査し、公娼制度の廃止を提言するに及んで、1935年(昭和10年)、ついに内務省は公娼廃止に向けて方針を文書『公娼制度対策』に固めた。

が、日中戦争および太平洋戦争の総力戦体制下においては、貸座敷(遊廓)や下層芸者といった性売買は重要な(男性にとっての)「性的慰安」と位置づけられ、「全国民挙げて簡素なる決戦生活を以て戦ひ抜くべき機運の醸成*1」のため、むしろ保護が加えられ、性売買の廃止は大きく後退した。

戦後1945年(昭和20年)10月、連合軍最高司令官・マッカーサーは幣原喜重郎首相に「婦人の五大改革」を指令、次いで内務省は廃娼の意志を固める。昭和21年12月2日、内務省警保局は各庁府県長官に宛てて、建前上、娼婦は寄寓した建物で自由意思に基づいて買売春を行うこと、娼婦には別の職業を持たせることなどを指示した。併せて「売淫を暗示することのないように時代に応じて適当に改装させること」と指示している。わざわざ戦前期を持ち出した理由は、戦前からの流れをみることで、戦前の洋風妓楼もまた視野に入れるためだ。

戦後の娼家(娼街)は「カフェー(街)」と称されたように、戦前のカフェー建築を模した造りが多く見られる。国土が破壊される前の豊かだった時代を懐かしむかのように戦前の流行を取り入れたものであろうが、同時に上記カギ括弧内の指示が大きく影響していると、私はみる。以下に事例を示す。

東京都・立石にあった赤線業者は3畳6畳の長屋を改装して、わずか1畳のホールを用意している。その業者は以下と語る。

神崎清『戦後日本の売春問題』より引用。無断転載禁止。

特殊飲食店、特殊喫茶店、カフェーと、警視庁の方針がかわるたびに改装を命じられて

神崎清『戦後日本の売春問題』

上図は「ダンス」ホールと明記されてこそいないが、当局からカフェー化を命じる形式的な指示に困惑する業者の声を汲み取れば、実態のないダンスホールと解せよう。

別な例を挙げる。罹災した亀戸の私娼業者が創設した娼館・東京パレスは、坂口安吾が『田園パレス』(昭和25年)で取り上げるなど、玉の井、鳩の町にならんで高い知名度を有した墨東の娼街だが、ここには本格的な80畳のダンスホールが備えられ、専属バンドも抱えられていた*2。

『愛情生活』(昭和26年11月)

上記の写真は東京パレスのダンスホールを写したものだが、これはさすがに「実態のないダンスホール」とは呼べないだろう。東京パレスを発案した人物である坂信弥は、戦前、鹿児島警察部長時代に鹿屋市に娼館を用意した経験を以下述懐する。

鹿屋という町に海軍航空隊があった。後年真珠湾攻撃をやったあの航空隊である。同隊には少年航空兵がたくさんいたが、海軍の中でここの少年航空兵がいちばん早熟だったらしい。いつ死ぬかわからない境遇だから、死ぬ前に『男』になりたいという気持ちも強かったのだろう。ところが適当な遊び場所がないものだから、町の娘たちに被害が及ぶ。娘の親たちは怒って航空隊に苦情を持ち込む。隊長の石井静大佐もこれには弱って私のところにやってきた。
「こういうことを頼むのはあなたで三代目の警察部長だが、なんとか遊び場所をつくってくれないだろうか」
要するに『赤線』をつくってくれというのだ。当時、内務省は人身売買をうるさく取り締まっていたので、新しく遊廓を設置するなんてとてもむずかしいことだった
私はこの申し出には弱ったが、私も同じ男である。まして少年航空兵はお国のためにあすを知れない命だ。そこで「よろしい、なんとかしましょう」と言って一計を案じた。それは郊外の町有地約五万平方メートルにダンスホールをつくる計画だ。各ダンスホールのダンサーは客である少年航空兵と意気投合の結果、別室にご案内する。つまり、いましきりにその方面に利用されている「恋愛関係の成立」という形式をとることにした。

坂信弥『私の履歴書第18集』(1963年、日本経済新聞社)、太字は筆者処理

内外からの廃娼世論が高まるなかでは内務省は遊廓の新設を許可しない。そこで坂はダンスホール・自由恋愛(意気投合)を方便とした。その坂が鹿屋での〝経験〟を生かして、企図したものが東京パレスである。すなわち装置としてのダンスホールがいかに充実していようと、性売買を「暗示することのないように時代に応じて適当に改装させ」た設えに過ぎない。設備が充実すればするほど、「巧みな偽装」なのである。ダンス行為の実態の如何が本質なのではなく、性売買以外の設備や仕組みを有することが「方便」なのである。

こうした経緯を知る時、娼家のダンスホールへ抱いたロマンが、幻想であると自覚できる。「自由な感性」どころか、約80年前の、常日頃「無粋者」扱いされてばかりいる政府や警察が意図した通りに、私たちはロマンを読み取っている。

知識はロマンを破壊する

ロマンに浸っていたければ、あえて知識を身につけないことも選択かもしれない。しかしそれは既に誰かが描いたロマンの追随・再生産であり、本来の意味で「自由」でもなければ、独創性は無論ない。知識を得ることで、ロマンはいったん破壊されてしまうかもしれないが、以前よりも少しだけ高い位置に自分の視点(感性)を置くことができ、その視点から改めて自分が求めるロマンを描き直すことができる。私がロマンに抗いたくなるのは、こうした理由からである。

付記

遊廓などを材にとった創作、例えば絵画・映像・工芸あるいは落語など無形のものまで、なんであれ、こうした分野の創作者が自身の知識を指して「私は遊廓の専門家ではないので…」とエスクキューズを挟むことがある。私はこの言葉にかなりのモヤつきを覚えている。

専門家レベルの知識を有することは容易ではない。かくいう私も研究者ではないし、先行研究から学ばせてもらっている。どのような創作であれ、限界を抱えながら創作を試みている。だが、知識の限界を自覚して勉強に努めることはあっても、知識が不足しても良しすることにはなるまい。

確かに「私は専門家ではないので」→「万一間違いがあったら、それは私の勉強不足です」と続く謙虚さが含意されることもあり得るが、そもそも専門家であっても完璧な人などいないのだから、「私は専門家ではないので」と挟めば、必然的に「万一間違いがあっても、そもそも私の専門分野外であり、仕方がないことです」と取られるだろうし、発言者もまたそれを期待していないと言い切れるだろうか。

誤解ないよう言い添えると、知識がなければ創作してはならない、などと言いたいのではない。知識を足場にしてこそ「自由な感性」すなわち創作性が生まれ得ることをダンスホールを事例に示した。知識と創作は対立するものではなく、本来相互に補完するものである。創作者が知識を放棄することは、同時に創造力を放棄することに等しい。


◇参考文献
*1:藤野豊『性の国家管理』(2001年、不二出版)p146
*2:『モダン日本』(昭和25年10月)


私、渡辺豪は遊廓を取材しています。noteにもまとめておりますので、ご高覧の上、共感頂けましたら取材費用のサポートをお願いたします。

※ヘッダー画像・中村遊廓(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)
※以下は有料ラインですが、以上がすべてなので、その下には何も書いていません。記事を有料化するためのものです。

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