飛田遊女が繋ぎなおす地域社会/取材記(2022/5〜2022/12)/大阪市飛田新地
現行の娼街として、とかく好奇の視線に晒される飛田新地料亭街(以下、飛田新地)。
飛田新地を取り上げた一般週刊誌では、早いものに、今から遡ること約30年前、平成4(1992)年12月号『マルコポーロ』(花田紀凱編集長、文藝春秋発行)があります。同誌では特集「人類の病としての、売春。」を組んで、国内外に残る現行の娼街を紹介。(余談ですが、表紙を飾る飛田新地はハニー白熊こと木村聡氏〈当時36才〉が担当)。
もちろんそれ以前も、男性誌では売防法施行後も折々に触れて、あたかも治外法権下にあるかのような飛田新地の実情を紹介してきましたが、せいぜい男性向けのプレイ情報の文体で紹介されるに留まっていました。異色作には、野坂昭如が当地を訪ねた『ああ寂寥、飛田〝遊廓〟の奥二階』(昭和42年初出)があります。私が監修した『赤線本』に収録してあるので、ご興味ある方はどうぞ。
飛田新地が今日のようにメディアを賑わせる転機となったのは、平成23(2011)年に発行された井上理津子『さいごの色街 飛田』(筑摩書房)あたりだったのではないでしょうか? 本書は相当広く読まれたようで、現在は新潮社に移籍した文庫版は、私の手元に今あるもので11刷(令和3年12月25日発行)とあります。
本書が商業的に成功した理由は、大手出版社が飛田新地を取り上げ、その驚きが注目を集めたからとの見方もできますが、私は別の見立てをします。
この時期に前後して、2000年代にブロードバンド、2010年代にスマートフォン、それぞれが急速に普及しました。加えてSNS。それまで〝アングラなるもの〟として隔離されていた情報が、広く目に触れるようになったタイミングと重なった影響が大きい、と私は捉えています。
それ以前は情報には一定の棲み分けがあり、例えばマニア(≓専門家、好事家)とそれ以外、あるいは地方と都会など、これらを隔てていた情報格差が、この時期急速に接近しました。そして、格差を際立たせるコンテンツが持て囃されました。トリビア、オタク(の一般化)、B級グルメ、ゆるキャラなどなど…。既に隔世の感があります。
前述の通り、飛田新地の実態は半世紀にわたって断続的に漏れ伝えられてきた過去があり、したがって『さいごの色街 飛田』の内容や企画は必ずしも斬新ではありませんでした。近年、飛田新地がメディアを賑わせる現状を眺めては「俺はとっくの昔から知っていたぞ!」と軽い地団駄を踏む男性も少なくないのではないでしょうか?
ただし重要なのは、知識の高低や浅深ではなく、知る人と知らない人がどれだけ隔てられていたかであり、この差が2000年以降のネットでは「バズる」を生んできました。ネット登場によるメディアの権力交代と、それに伴って私たちが受容する情報の棲み分けに大きな変化が訪れようとする商機を捉えた出版社側の〝読み〟(あるいは偶然)が本書の商業的成功をもたらしたのではないでしょうか。
その後は様々な雑誌、テレビ、ネットなどのメディアが取り上げてきました。2015年には公共放送・NHKが(『探偵バクモン』)取り上げたことで飛田ブームがようやく1巡し、2周目、3周目に入りつつあります。
飛田新地を扱うコンテンツの少なくないものが、ルポルタージュ、建築美、人間観察、雑学バラエティと様々な体裁をとりながら、内実は読者(視聴者)の覗き見趣味を刺激するもので、先の体裁は、歓心を買おうと腐心する作り手の下心を糊塗するもの、いわば〝見かけ〟に過ぎないもののようにみえます。
こうした作り手と受け手の関係性が2010年前後からおよそ10年以上を経ても享楽的情報の発信と享受に留まり、変化のない現状は、「売春街」という刺激をやみくもに消費してきた証左ではないでしょうか。(誤解無いよう言い添えると、どのようなものであれ切っ掛けは大切です。たとえ消費的に扱うものであっても、機会が増えることは良いことです。あくまで作り手の在り方を論じています)
こうした現状に抵抗感を抱いていた私は、これまでに何度も飛田新地へ足を運ぶ機会を得ながら、下心の糊塗に腐心する作り手たちに与したくはなく、結果、取材する機会を逸していました。
飛田新地に残る供養碑
繰り返しお伝えしている通り、「遊女の墓」をテーマに据えて取材を続けています。そんな折、飛田新地にも供養碑があることを思い出しました。「歴史」という虎の威を借りて下心を隠さずに済む──。飛田新地の過去・現在・未来を貫徹するテーマ「遊女の墓」が、当地に近づく足元を照らしてくれました。
さて、前置きが長くなりましたが、こうした経緯からテーマ「遊女の墓」の一環で、飛田新地の取材を開始しました。
前回の記事でも触れましたが、飛田新地南方に供養碑群(大阪市西成区山王3-5付近)があります。今回はこれを調べてきました。
ここには、建立時期の異なる石像物が2組があります。まず、正面に「慈悲共生」と彫られた石碑があり、裏には「平成4年6月吉日建立 飛田遊廓発祥の地」と彫られています。傍らには以下の碑文が刻まれた石版。これらが同時期に建立された一組。
もう一組は慈母観音像と、当エリアを設置した経緯を記した石碑(平成20年8月吉日建立)があります。(以下、この石碑を便宜上「山王三丁目石碑」と呼ぶ)。
「山王三丁目石碑」を抜粋すると、以下とあります。
これらを総合すると、戦前すなわち公娼時代に高野山に慰霊碑を建立したが、いつしか所在が不明となってしまったので、その代わりとして、平成4(1992)年に「慈悲共生」石碑を新地内に建立。関係者内の世代交代が進んだ平成20(2008)年に、改めて慈母観音像を建立した。このように理解できます。
これを確認するため訪ねた飛田新地料理組合で、「山王三丁目石碑」では行方不明と記述されていた高野山の慰霊碑が、実は数年前に見つかったと、教示を受けました。
加えて見学を許された同組合の事務所・飛田会館内には戦前の講中を写した記念写真も掲げられていました。当時の講が観光・行楽の性格を備えていたとはいえ、戦前、飛田の楼主たちが一定の宗教的な行為を催し、また遊女(娼妓)の慰霊を兼ねていた点は、従来の書籍などでは触れられておらず、興味深い過去を知りました。
明治の開国以降、高まる人権意識と廃娼という世相にあって、こうした弔事は世間への〝申し開き〟に過ぎぬ、と突き放すこともできます。一方で急変する社会に立たされた楼主(とりわけ、その家に生まれた子ら)が、すがったであろう信仰心を軽視することは、私にはできません。
搾取が常態化していたことは間違いなく、楼主が貧困問題に寄生していたと見做すことにも私は異論ありません。ただし、であるならば、遊廓の周囲に店を構えた飲食や日用品の販売業は、寄生してこなかったのでしょうか? 従来、記されてきた本や、私が取材してきた現地では、商店主の口から内省的な声を見聞きしたことはありません。
楼主たちが行っていた遊女の慰霊を考える時、あれこれと思いは尽きません。
後日、同組合から教示を受けた戦前に建立されたとされる慰霊碑を探すため、和歌山県の高野山をお参りすると、別格本山 一乗院の山門に、その慰霊碑はありました。
平安時代、空海が開山した真言宗・高野山──。およそ1,200年に渡って僧侶たちが守り通してきた聖地と、文字列「飛田新地」。この対比には、どうしても違和感を覚えてしまいます。
忘八──
楼主はかつてこう蔑称され、遊廓や遊女との関係性を端的に表したい場面では、とかく〝敵役〟として引き合いに出されてきました。
楼主にも「営み」があり、高野山の講もその一つに過ぎない。こうした当たり前のことに違和感を覚えるのは、私自身が日頃から、作為的に創作された「忘八」に集約される虚構に触れ、そして、知らず知らず、彼らを虚構に埋没させてきたことの裏返しなのでしょう。以前の記事で引いた加藤晴美氏の指摘を援用すれば、「ある種の身勝手なロマン」を、遊女のみならず、楼主たちにも投影してきました。
高野山・一乗院の慰霊碑について取材を続ける中で、12月中旬某日が同組合の臨時総会にあたり、これの一環で、高野山の慰霊碑を祀る一乗院の住職を招いて、例の「山王三丁目石碑」で慰霊式が執り行われるとの教示を同組合から受けました。
当日執り行われた慰霊式では同組合の理事(料亭経営者)40名が参列。公応氏が20分ほど読経し、式は30分ほどで終えました。
私がこれまで取材してきた遊女の墓・慰霊碑は、楼主を発起人とした建立が多く、したがって昭和33年に売春防止法が施行された以後は、弔事のほとんどが廃絶しています(一部例外もあり、先日これも取材しました)。今こうして、かつて飛田遊廓に従事した遊女らに回向を施すことができるのは、当地が〝現行〟であるお陰ともいえます。これをどう評価すれば良いのでしょうか。今もって私は巧く言い表せません。
閉式後、続いて同組合の臨時総会が行われ、私も傍聴を許されました。同総会では、慰霊式が執り行われたことの他、一乗院の過去帳を新調したことなどが報告されました。過去帳には今後、没した同組合員が記名されていくとのこと。過去帳の新調が持つ重みや意義について正確に推し量ることはできませんが、おそらく記名は個々人の判断に委ねられ、自身の檀家寺と重複していくことを考えれば、宗教性の強い信仰というよりも、先の講中のように、ある種、コミュティを形成する一環に近い印象を受けました。
総会では、慰霊碑の管理に携わってきた幹部の次の言葉が心に残りました。
「寒い商売」をどう受け止めたら良いのか。料亭経営者は、法律や地域性の隙間を衝いた金満家、というのが私を含むおそらく世間一般の見方かと思います。が、彼らは世間からの白眼視に晒されて、孤立的な現状を自覚している、そのことを指した「寒い」に私には聞こえました。
同総会には陸上自衛隊や西成区消防署も出席して、それぞれ隊員募集の広報や、年末年始の火災予防についてアナウンスされました。最後に組合長が新調した過去帳を片手に掲げ、組合員(料亭経営者)に語りかけました。
こう結束を呼びかけます。
私にはこの言葉が、日本の現在と未来に重なって聞こえました。
私が経営する遊廓専門書店カストリ書房(台東区千束4-39-3)は吉原遊廓跡にありますが、隣接して「山谷」というエリアがあります。詳細は割愛しますが、高度成長期にかけて肉体労働に就く単身の男性が多く集住した地域で、いわゆる日雇い労働者の街・ドヤ街と呼ばれた時代はとうに過ぎ去り、現在は多くが生活保護を受給して終の棲家として暮らす、全国有数の「超高齢社会の街」です。
この街にある居酒屋で飲むことも多い私は、組合長が発言するところの「おかしい人」に数え切れないほど出会いました。かれらは一様に、「一匹狼」を誇って、まったく利害関係のない私にすら自分を大きく見せようとします。「この辺で自分を知らない奴はいない」「喧嘩別れして仕事を渡り歩いてきた」云々──。話は止まらず、繰り返しループし、やがて酒に飲まれて突っ伏して寝てしまう。
彼らのすべてが家族との責任を放棄してきたと見做すつもりは毛頭ありません。岡林信康『山谷ブルース』(昭和43年)に唄われたように、安い労働力として使い捨てにされ、家族を顧みる余裕すら与えられてこなかった側面も大いにありました。
西成(釜ヶ崎)と山谷は、ドヤ街という共通点のみならず、少子高齢化が進む今日の日本にあって、最先端の街である点でも通底しています。西成や山谷のありようは、未来の日本が辿り着く姿の一つ可能性です。
いま挙げたような西成や山谷の住人に、殆どの人は出会った経験がないかもしれませんが、思い返してみれば、都市部のコンビニや駅構内などでは、既に少しずつ同様の事象が顕在化していないでしょうか。家族、地域、会社、性役割などに内在していた因習が解体される一方で、同時に繋がりそのものを失い、私たちは漂流し始めています。「無縁社会」が叫ばれ、高齢者の人口比率が高まる日本社会では、絆を失った人々はどのように老いゆくのか──
少なくない日本人が新しい絆とは何か分からないまま手探りを続ける中、飛田新地は、公娼時代からの慰霊を復活させて、新たに過去帳をつくり、疑似家族としての絆を深めようとしていました。飛田新地で没した遊女が、新しい絆となりつつあります。
「供養は死者ではなく、生者のためにある」、とはよく聞く言葉です。飛田新地の遊女供養碑は、そうした一例を示すものでした。これをどのように言語化すべきか、新たな課題を得た取材となりました。高野山の慰霊碑についても建立年や、飛田新地組合が再発見した経緯などご住職・公応氏にインタビューしておおよそ明らかになりましたので、今後の本でまとめてみたいと思います。
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