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2年と2ヶ月の長旅を終えて。

「ゆうかちゃんは、アーティストだよね。」

目黒の居酒屋の席で、けっこう真剣な話しをしてる時、私のことを大学時代からよく知る先輩に、そんな風に言われたことがあった。

???

その時、20代後半、わたしは「起業家として生きていきたい」と思ってたから、「え??アーティスト??わたし、歌とか歌わないけど。」って心の中で思ったけど、その人の意図がよく分からず、「うーん」とだけ呟いた、そんな記憶。

その意味が分かるようになるまで、約2年と2ヶ月、わたしは、長い、長い旅をしていたんだ。

(2022.07) ✈︎
会社を辞めたら、やっと呼吸できた気がした。

社会人3年目、目の前の現実に疲れ果てた時。

28歳の7月。今から2年と2ヶ月前、5年勤めた大企業を辞めた。

給料やボーナスは申し分ないし、人間関係も良好。働き方改革も相まって、ワークライフバランス超重視の、超絶ホワイト企業。コロナが来てあんなに世間が灰色になった時でさえ、会社はびくともせず平和だった。厳格すぎるルールも、ブランドや社員を守るため。大企業の闇は色濃く存在していたけど、じゃあここを辞めるかと考えた時に、わたしは2年も悩んだくらい、どう考えても甘い蜜がたっぷりの環境だった。

これまで積み重ねてきた「経歴」なんて、そんなに大切じゃないはずなのに。周りから羨ましがられるような「肩書き」なんて、興味がないはずなのに。

心はもうそこにないのに、身体だけが会社にいる。窮屈な箱に閉じ込められたまま、これ以上羽を広げることができず、時間だけが過ぎてゆく。ガラス越しに外の世界を眺め、ここから出れたらどんなにカラフルな景色が見れるんだろうと、ただただ想い焦がれるそんな日々は、想像を絶するほど辛かった。

だから会社を辞めた日の夜、ひとりで初夏の川を散歩してた時、「やっと呼吸ができた」と、思ったんだ。

「ああなんだ、わたし、
ただ、呼吸がしたかっただけなんだ。」

それ以来、「手放す」ことを覚えた大人は、本当に自由に身軽に生きていけることを知った。

28歳で大企業を辞めるという選択ができたことは、人生でやって良かったことランキングTOP3にランクインする。あくまでも、わたしの場合は。

社会人3年目、確か26歳頃から。ずっと、「起業家という生き物」に憧れていた。自分のビジョンを描いて、社会の荒波と闘って、誰から何を言われようがブレない、揺るぎない信念をまんなかに置いて。そんな「自分を生きる」姿を心底かっこいいと思っていたのだけど、自分の本当の想いに気づくのは、それからずっと後の話しだった。

上司から言われた「世間はそんなに甘くない」という言葉を思い出しては反発するように、わたしは「絶対、理想の起業家になってやる!」と、燃えていた。

(2022.08-12) ✈︎
想いを表現する怖さを、乗り越えて。

会社を辞めた後に作った、HPの写真

28歳、8月。
そこからはまず、わたしの「トラウマ克服修行」が始まった。

会社を辞めたばかりのわたしは、とにかく想いを表現することに対して、強いトラウマを抱えてしまっていた。

わたしなりの正義があって、わたしなりの美意識があって、わたしなりの「許せない」があった。

でもそんな個人の想いを持って動くよりも、会社の方針に合わせて、上司の価値観を汲み取って、周りに波風立たないように、「上手くやる」。そんな風に卒なく生きる方が、断然スムーズに回る、「会社員の世界」。

わたしも、物理的にそう生きようと思えばいくらでもそう振る舞えたと思うのだけど、当時、社会への反抗心や会社への反発を強く抱いていたわたしは、死んでもそんな風に合わせたいなんて思わなかった。(扱いづらくてごめんなさい)

その結果、想い第一に動いても結果に繋がらなかったり、受け取ってもらえなかったり。もちろん、仕事なのでそこには想いに匹敵するほどの論理もあったんだけど、そういう問題じゃなくて、一言でいうと、自分のスタンスを貫き通した結果、深く傷ついていたんだ。

だから、人生初のクラファンをやった時は、大変だった。わたしが中途半端な想いしか伝えないから、相手からも中途半端な想いしか返ってこない。

そんな状況を見かねて、一緒に活動してたパートナーの子から、「本気で伝えないと意味ないよ!」の叱咤激励。笑 「言おうか迷ってることも全部含めて、こっちから本音で伝えないと、相手からも本音で返ってこないよ。」

そんな風に言う彼女の言葉を受け入れるには、少しだけ時間がかかったけど、自分の怖さを乗り越えて、ある日、一歩踏み出してみた。渾身の想いを込めた、LINEの長文メッセージ。

(ああ、ウザイって思われたらどうしよう。。)

本気で自分の想いを伝えることに対して、ネガティブなイメージが払拭できなかったわたしだったのだけど、返ってきたLINEをみて、本当に心が温かく染み渡ったのを覚えてる。

「伝わった。。!!」

どんな時も、相手は自分の鏡みたいで、わたしが言いにくいことも全部含めて本音を伝えたからこそ、相手も、迷っていた気持ち含めて、本音を返してくれた。それで、結局繋がって、心から応援してもらうことができたんだ。

たったそれだけの、それだけのことなんだけど。トラウマを解消するのって、こういうことの積み重ねなんだってことを知った。日常生活で、いかに実践して、体感していけるか。自分が向き合うべきことを見ないふりして、こういうことを適当にしてると、いつまで経っても、自分の中の「ブロック」は無くならないんだって。

そんな風にして、わたしは「想いを表現することのトラウマ」を、少しづつ、払拭していった。

相方と45日間のクラファンを、走り抜けた!

そしてクラファンは予想を遥かに超える大成功、無名で実績もない2人だけで挑戦したにも関わらず、気づいたら370%を超える応援額が集まった。

しかもけっこう凄いと思うのが、「想い」だけで集めたところ。。!普通、クラファンって何かサービスや商品があって、それを応援してもらうと思うんだけど、わたしたちの場合は、そういう大それたものは出来上がってなくて、「コミュニティをみんなで一緒に創っていきたいです」というスタンスのクラファン。笑 だから、本当に「信頼」で乗り越えたといっても過言じゃないと思う。あの時応援いただいた皆さま、本当にありがとう。💐

(2023.01-12) ✈︎
反省だらけ、一年間のコミュニティ運営。

ココロとカラダのアップデートコミュニティ

ただ、そこからがものすごく大変だった。

中身が出来上がってないのに、コミュニケーションコストがめちゃめちゃかかる、難易度の高いコミュニティをやってしまったものだから、全てにおいて、全く費用対効果が合わなかった。

ビジョン、ミッション、バリュー、とかはめちゃめちゃ深く議論するんだけど、肝心な現実が追いつかないというか。

わたしたちがやってることと、40名のみんなに提供できる価値が、全く伴わなかった。というか、そもそもそこがズレてた。(ここらへんは、また別のnoteで詳しく振り返りたい)

コミュニティであるが故に、人間関係のトラブルも激しく起きたし(リアルに死の危険も感じた)、そういうのを解決するのに疲弊したりして、特に同じタイミングで自分じゃコントロールできない色んなあれこれが重なった時は、メンタルがかなり強い方のわたしでさえ、「やめたい。。」と思った時があったほど。笑

でも、年に3回開催したリトリートや、数回のオフ会はものすごく好評で、わたしたちの自慢は、とにかく集まってきてくれた素敵なメンバーたちだった。。!そんな「かけがえのない繋がり」は、間違いなく提供できたと、自負している。大好きな人同士がそれぞれ繋がって、HAPPY連鎖が起こっているのを見たら、それだけでも全てが報われる気がしたし、今でも、死ぬほど大変だったと思い出すけど、ほんとうにコミュニティをやってよかったと思う😭

29歳、12月。一年という時間が終わるタイミング、年末帰省した時、実家でひたすらコミュニティ運営のことを振り返って、まとめていた。

「結局、伝えたいこと伝わらなかったなあ。」

ここでは割愛するのだけど、会社を辞めてからというもの、目の前の景色が180度回転するような、ものすごくディープな世界を生きていたので、そこでみた世界の「凄さ」を伝えるのに、コミュニティという手段は最適ではなかったと思っていた。

それにしても、鮮明に振り返って資料に落とし込むほど、反省点が大きく7つくらい出てきて、その時はどれも痛いと感じるものばかりだったけど、今思えば、とてつもない大きな財産、自分のやりたいことを実現するために必要な気づきや学びの数々を得れて、本当にラッキーだったと思う。

沢山のぶつかり合いや分かち合いを経て、自分たちのビジョンや生きる意味、存在価値と本気で向き合ったからこそ、最終的に残った、見えてきたものはとても大きかった。

この時は、まだ「起業家として生きていきたい」想いが強くて、とにかくその根幹であるMVV(ミッション、ビジョン、バリュー)を固め切るのに、必死だったんだ。だから、何度も何度も仮説検証して、本当にそれで良いのか?確かめて、繰り返して。一年という時間をかけたからこそ、そう簡単には揺らぐことない、納得する形で言語化できたことが、何より嬉しかった。

あとは、あまりに素敵すぎるロゴができた時は、一生宝物にしたいと感極まった。

ブランドロゴ。素敵なデザイナーさんが作ってくれました ❤︎

◻️ビジョン
HAPPY連鎖が起こり続ける世界の実現

◻️ミッション
唯一の自分を生きる人を増やす

◻️バリュー
1. 誰かにとってではなく、自分にとっての価値基準を明確にする

2. 本質的に自分を大切にする方法を学び、日常生活での実践スキルを重視する

3. 仲間とエネルギーを充電し高め合い、新しい世界に出逢い続ける

2023年時点のUnique ME「MVV」

(2023.01-2024.04) ✈︎
最愛の人との出逢い、スピ性の開花と覚醒。

キャンピングカーの展示会にて

コミュニティをやっていたその頃、わたしは「恋愛したい」なんて1mmも思っていなかったんだけど、というか、自分の夢に真剣すぎてそれどころじゃなかったんだけど、音を立てることもなく、自然すぎる流れで最愛の人に出逢った瞬間があった。

この頃から、なんと突如、わたしのスピリチュアル性が芽を出し始めることになる。笑

これもまた別のnoteで描けたらと思うので詳細は割愛するけれど、とにかくそれまでわたしはスピリチュアルの「ス」の字も興味がなく、興味がないどころか自分とは無縁の世界、故に、一般的に感覚と同じように「普通に怪しい」と思っていた。

実際に、スピリチュアル性の強い人とのビジネスの話があった時、最終的にお断りさせていただいたくらいには、避けたいと思っていたくらいだった。

だから、最愛のパートナーと出逢ったことをキッカケに、気づいたらそんな感覚が血液に流れているような、スピリチュアル的にリアルな現象が起こり続けた時、「明確な体感」を持って、「この世界には目に見えないものが存在する」のだと、信じざるを得なかった。

スピリチュアルって何?と言われたら、人それぞれ答えや定義は違うと思うのだけど、わたしの場合、体感を踏まえて

例えば、前世の記憶を思い出すこと、霊視ができるようになること、相手の感覚が言わなくても感じ取れること、未来起こることが視えること、引き寄せの法則が怖いくらい起こること、とにかく不思議な現象が起こること、人や自然のエネルギーを感じ取れること、みたいな感じ。

しかも明確に「覚醒」した瞬間もあって、30歳の4月くらい。あの時は本当に自分がどうなるか分からなくて、とにかく怖くてしょうがなかった。実際には、心理学的に言うと「全面的な自己受容」で、わたしは自分のスピリチュアル性も含めて自分のことを受容する、という経験をしたらしいのだけど、そんな冷静なことその瞬間は思いもしなかったし、ただ「君の名は」的な世界観で、「人柱」になる気しかしなかった。笑

▼ 興味がある方はこちらを。

たぶん、数年前のわたしがこれを聞いたら、頭おかしくなったんじゃないか、と思うくらいなんだけど、実際、現実として起こってしまっているからしょうがない。

しかも面白いことに、自分のそういう感覚が研ぎ澄まされればされるほど、周りにもそんな人が増えてきて、ほんとうに類友だなと思う。

ちなみにわたしは一周回って、スピリチュアルという言葉に違和感を持つようになったというか、そもそもみんな人間はスピリチュアルな存在で、それが封じ込められてる日本社会が異常だと思うようになった。一時期は、自分がとてつもなく「普通ではない存在」に思えていたのだけど、今は、自分の感覚の方が普通だと本気で思っている。(あんまり言わないけれど。笑)

そうして、わたしは自分の意思とは裏腹に、29歳で、スピリチュアル性という「神様からのギフト」を授かることになったのだった。

わたしが個人的に思うに、スピリチュアルという世界に、一切の「論理」は存在しない。自分の感覚が全て、自分の経験が全て。つまり、資本主義や起業のように、数字や実績など、目に見えるものを重視する世界、何より「論理」が必要な世界の、真逆に存在していると言っても、過言じゃないんだ。わたしは「目に見えない世界」がこの世に存在することを知ってしまったからこそ、しかもそっちの方により「価値」を感じてしまったからこそ、この頃から自分でも気づかない内に、「起業家として生きる」ことに対する気持ちが、どんどん薄くなっていったんだと思う。

(2024.01-06) ✈︎
前世で約束した出逢い、必然的に生まれた曲と本。

出版社がある宮古島の夕焼け

30歳、1月。コミュニティが終わった翌月から、わたしはWEBデザイン・ディレクションのスクールに通い始めた。

実は、会社を辞めた時から通いたかったのだけど、色々あってタイミングが合わず、今年の1月に念願の入学。職業訓練校だったので、カリキュラムは相当しっかりと組み込まれていた。

わたしが通い始めた理由は明確で、自分でWEB周りの実務ができるようになりたかったから。昨年のコミュニティ経験を経て、せめて、ディレクションはできるくらいの知識とスキルをつける必要があると思った。なぜなら、意識レベルでは、まだ「起業家になりたい」と思っていたから。

学校の課題をこなすのは想像以上に大変で、毎日16:00から21:00まで授業を受け、帰宅してから気づいたら朝の5:00まで課題をやってることも多々。途中で2週間ほど体調崩したりして、なんだかあまりに辛くなって、当時同棲してたパートナーに泣きついたこともあった。笑

イラレ、フォトショ、プレミアプロ、マークだけは知ってるAdobeツールをこなしながら、何個もバナーをつくって、何個もロゴをつくって、何個もHPをつくった。

そんな学校生活の中で、出逢ったのがシンガーソングライターの友達。

最初は他愛もない話から話すようになって、でもある日、授業と授業の合間の休み時間に、「ゆうかちゃんには聴いてほしいんだけどね、」って、彼女の夢を打ち明けてくれた日のこと、今でも覚えてる。

「え!!!めちゃめちゃ良いじゃん!!!」

わたしは「彼女の夢」に興奮して、気づいたら「わたしの夢」も話していた。一年間の大変なコミュニティを経たからこそ、たどり着いた、やりたいこと。まだ人に話したことがなかったから、初めて言葉にした時に、「ああ、わたし自分で、そう思ってたんだ」って、気づいた。

そこから、わたしたちはよく、お互いの夢の話をするようになった。授業と授業の間の10分やそこらじゃ到底足りなかったから、授業の前にランチをするようになり、そこで自分たちの想いを強く描き合った。

ある日、その子が言ってくれた。

「ゆうかちゃんのこと、人生のフルコースを味わうような生き方だなって、思ったの。」

その後、彼女から出てくる言葉のひとつひとつが、とても美しくて、わたしは一曲の歌を聴くかのように、思わず時間が止まったような気がした。

その子の話を全部聴き終わった時に、わたしは感動で心が一杯になった。自分のことをそんな風に喩えてもらったのは初めてで、比喩というプレゼントがこんなに嬉しいんだっていうことを知り、とにかくそのストーリーがあまりにスペシャルで気に入ったので、わたしはお返しに、生まれてきた文章をnoteに描いてシェアした。

そしたらその子が絶賛してくれて、なんと、わたしのことを歌った曲が出来たことを教えてくれた!

その曲を聴いた時は、最初は「いちばんめ」だけだったんだけど、彼女の本質を見抜く力や、わたしの感覚と1mmも違わない言葉遣い、取り込む温度感や世界観など、その全ての「才能」に、一瞬「これは凄いことになる」と感じたほどだった。

それから1ヶ月後、わたしのお家で「にばんめ」を含めたフルバージョンを聴いた時、自分のイメージと全くもってぴったりだったことにもはや驚くこともなく、ただただ、感動の涙が溢れた。

▼ その時のリアルな感覚はこちら。

わたしの「本質」、そして伝えたいことが、コミュニティでは伝えられなかったことが、全てこの曲に詰まっている。その事実に、激しく感動した。

そして気づいたら、その子の夢が、まるでわたしの夢かのように、イコールになって、「この曲を絶対世の中に広めたい!」って、プロジェクトを立ち上げることになったんだ。

わたしの起業家としてのビジョン、スピリチュアル性も含めて「伝えたいこと」、この曲なら伝わるかも、って、ものすごく期待して。

「この曲を、ミュージックビデオにしよう!」と2人で盛り上がって、

「ただ、それだけじゃ伝えられるメッセージ性に限界があるから、わたしはこれを補足する、本を描くね!」と、わたし。あくまでも、ミュージックビデオが最優先の、メイン。本は、サブとして、それを彩るもの。(と、この時は思っていた)

そこからの熱量は凄まじくて、1週間ほどで資料をまとめ上げ、2週間ほどで仲間を集め、約20名規模のプロジェクトとして、6月終わりにエントリーまで完了させた。

好きなこと、やりたいことに対する情熱って、本当にすごい。笑

後から聞いたんだけど、わたしとその子、前世で「また会おうね」って約束して別れたらしく、ここまで惹かれ合うことに対して、十分に納得した。

(2024.07-09) ✈︎
自分のまんなかを生きる、本当の意味。

プロジェクトメンバーに書いたポストカード

30歳の7月。そこからキックオフを開催し、約20名のメンバーとプロジェクトが始動した。

エントリー結果は当初の予定通りに来なかったけど、とにかく夢いっぱいで、見る目がある音楽業界の人に「この曲はヒットソングになる」と絶賛してもらえた時は、自分の感覚が確信に変わった。全員に分かってもらおうとは思わない、でも、この曲の素晴らしさは、分かる人には分かる。

シンガーソングライターのその子とは、何十回と想いのすり合わせを行い、深くて濃い対話を重ねた分だけ、とにかく自分たちの成長が目まぐるしく起こっていった。

最初出会った時は、お互い一歩が踏み出せなかった。自分の夢への想いはあるけれど、人一倍そこに賭けるものが大切すぎて、中々、動くことができなかった。

でも今では、自分たちの夢を言語化し、そのために行動を起こし、そこに対して抵抗さえなくなった。

わたしは「目立ちたくない」という長年のブロックを手放し、ようやく表に出る覚悟ができた。Instagramも、YouTubeも、TikTokも、全面的にSNSで闘っていく覚悟ができた。

プロジェクトのテーマは、「自分のまんなかを生きる」。

誰もが、他の人の価値観でもなく、資本主義の枠組みでもなく、「自分が生きたいところを生きる」。本当はやりたくないことを手放し、本当はやりたいことを選ぶ。そんな風に、自分の人生を生きることができますように。そんな想いを込めて、まずは自分たちがそれを体現していきたいと思った。

ただ、わたしたちの加速する想いとは裏腹に、プロジェクトのエントリー結果は一向にこない。

2回問い合わせ、最終的に1ヶ月遅れで結果が到着。8月末、まさかの「落選」だった。

ここに対する想いの詳細は、先方のこともあるのでnoteに描くのは控えようと思うのだけど、とにかく全身全霊で納得がいかなかった。いくはずがなかった。(今思い出しても、本当に痺れる)

でも、それをキッカケにわたしとその子の魂に火がつき、より一層、夢への想いが燃え盛るようになったのと、一旦冷静になって、ゼロベースで本当にベストな進め方は何か、考えることができたのは、とても良かったように思う。「理解のない大人たちに頼ろうとしている場合じゃない」と、心底思った。自分自身に力をつけようと、覚悟ができた瞬間だった。

燃え盛っていた瞬間。笑

ただ、それと同時に、メンバー間でも色々起こって、わたしとその子で、何回も何回も話し合いを重ねる日々が続いた。実は、ミュージックビデオの撮影が無事に行われた日の、前日まで。

正直、その2週間は、プロジェクトを超えた、もっと個人的なビジョン的なところで、絶望を感じたり、とにかく思い描いていたことが実現できないことが悲しくて、しょうがなかったりした。

そして、何がこんなに悲しいのか自分の心を見つめて見た時に、

資本主義と自分主義の世界を繋ぐこと。

これが、去年も、そして今年もできなかったことに、とても悲しくてしょうがないことに気づいた。

もちろん、この世界が2つにピタッと分断なんてされないことくらい分かっていて、それらはグラデーションのように入り混じっているとは思うのだけど、どうしても、大企業という世界で「資本主義の極」を、スピリチュアルという世界で「自分主義の極」を、どちらも見てしまったわたしからすると、その両極端の世界では、価値とされることが違っていて、むしろ真逆で、でもどっちも本当に大切で、だからこそお互いが理解して受け入れ合うことが、この世界のHAPPY連鎖に繋がると、本気で信じていたから。

それが、この上なく難しいことは、自分自身が体験したからこそ、分かりきっているのだけど、その2つの世界を交えて今こうして生きていると、この目に映る世界が、本当に綺麗で、美しくて、感動の涙が出てしまうほど素晴らしくて、尊すぎるものだから、みんなにもこの世界をみてほしいって、やっぱり思わざるを得なくて。それが、諦めきれない。

そのことを、数日くらいずっと抱えている時に、映画をみながら気づいたことがあった。乙女座新月、9月3日。

この心臓のまんなかに、たったひとつしか置けないのであれば。

わたしは、「資本主義と自分主義の世界を繋げる」というビジョンと、「この目に映る世界の美しさを色んな形で表現する」という純粋な想い、一体どっちを選ぶんだろうと。

答えは一瞬で、後者だった。

「わたしがまんなかに置きたいと思っているのは、そっちなんだ。」

わたしは、会社を辞めてから描いてきた自分のビジョンさえ手放した。そしてたったひとつだけ選んだのが、「自己表現」を追求する道だった。

つまり、社会貢献の側面が強い「起業家として生きる」のではなく、自分の世界観を表現する側面が強い「アーティストとして生きたい」と、生まれて初めて、自覚したんだ。

この目に映る世界の美しさを、ただ形にしたい

「ゆうかちゃんは、アーティストだよね。」

数年前、目黒の居酒屋で、先輩から言われた言葉が呼応する。

「そっか、わたし、アーティストだったんだ」
「アーティストとして、生きていきたかったんだ」

わたしが「起業家」に憧れていた理由は、人生賭けてまで信じているものがある、そこを貫き通すかっこよさだったけど、考えてみれば、「アーティスト」も種類が違うだけで、同じくらい全身全霊で生きている生き物だ。そしてわたしが見ているこの世界の美しさは、起業家ほど明確に「サービス化」できるものではなく、そういった「資本主義的な香り」が限りなく漂うことのない、「アート」なのだと、ようやく理解した。わたしが生きていく場所、この命を全うする世界。闘う場所と、闘い方が、違ったんだ。

そこからの気づきは、そう難しくなかった。

わたしは社会貢献的なビジョンを手放したことで、自己表現という純粋に「いちばんやりたいこと」をまんなかに置くことができたし、何より、これまでは、自分の夢ではなく、自分が素晴らしいと感じる「他の誰かの夢」を自分のまんなかに置いていたことに気づき、全ての問題は根本的にそこから発生していたのだと知った。(もちろん他にも様々な問題が複雑に絡み合っていたけど、あくまでも根本的な、というところで)

去年のコミュニティも、今年のプロジェクトも。

わたしはもう、社会貢献に対するビジョンでもなく、他の誰かの夢でもなく、「自分の夢」そのものを、まんなかに置いてもいいんだと、今、人生で初めて想っている。初めて、そう生きようとしている。

そうやって「自分を生きること」が何より、この世界のHAPPY連鎖になることを信じて。

▼ 1年半前に書いたnote、どう考えても起業家ではない。笑

30歳の9月、まるで現実であることを忘れてしまうかのような長い長い旅が終わった。そしてわたしの夢への階段が、今ここから、ようやく始まる。

これから応援よろしくお願いします ❤︎


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