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夢を追いかけて、生きること。


子供の頃、小説を描いた。

確か、まだ5歳くらい。

作文用紙10枚くらいに、私が想い描く「キラキラ」を詰め込んで。タイトルは忘れちゃったけど、内容は、主人公が色んな経験をしながら、虹を創る物語だった。赤、青、黄色、ひとつずつ、色の欠片を探して、見つけて、拾って、気づいたら、最後には虹色の滑り台になる。それは私が見たい景色、そのものだった。

何かのコンクールに応募したんだけど、もちろん大それた特別な賞なんてものは貰えなくて、参加賞のような、500円くらいの図書カードが届いた気がする。

知らない誰かの評価よりも、自分の「楽しい」に心が向く子供時代。その時わたしは、自分の想い描く世界を初めて「ストーリー」として文章に落とし込めたことに、ものすごく感動して、描き上げることができた達成感と充足感で、たまらなく心が一杯になったんだ。

仕事とか、ビジョンとか、どんな風に生きてくとか、大人が「考える」そういうのは全然、意味を持たなくて、「ただ描きたいから描く」。

大人になった今、そんな風に純粋に「やりたい」という気持ちで、わたしはまた、エッセイを描き始めた。

30歳で、自己表現しながら生きていく道を新しく選んだわたしが、いちばん自分と繋がれるのは、間違いなく文章を描いている時だった。

言葉を取り扱っている時っていうのかな。きっと、いちばん求められるのは、YouTubeとかなんだろうけど。わたしはいちばん、文章を描いている時間が、ほんとうに好き。

そんなシンプルな「すき」に戻ってくるのに、随分と長い時間がかかった。沢山、寄り道をした。沢山、失敗もした。沢山、成功もした。沢山、要らない実績を手にした。沢山、自分自身と向き合った。沢山、できる限りを手放した。

20代後半、自分の「すき」「きらい」が、分からないことに気づいた。わたしは、自分の「すき」「きらい」、そんなシンプルなことさえ、知らないんだ。これまで何をみて、生きてきたんだろう。それ以上に大切なこと、一体何があったというのだろう。

9ヶ月間、6個のアプリを使って、新しく住む部屋を探した。毎日欠かさず、全ての新着情報をみた。中々、理想的な物件はなかった。引っ越しするタイミングの直前に、運命的に出逢った。すぐ内見に行った。同じ建物の、2つで迷った。

全面に光が入る、正方形みたいなお部屋と、光と影のスペースが分かれる、L字型のところ。

前者はまるで、自分の陰の部分を受け入れずに過ごさないといけない気がして、後者を選んだ。光と影がどっちも存在するところが、この世界そのものみたいで、とても素敵だと思った。運良く、ほぼ一目惚れしたそのお部屋に、住むことができた。

そこからわたしの「自分探し」が始まり、入口から出口へと長いトンネルを抜け出すのに、4年もかかった。わたしは何がすきで、何がきらいか分からなかったから、試して、やめてを、何百回も繰り返した。下手したら、何千回も。

途方もない取捨選択に思えたことも、積み重ねたら、段々と「自分」という存在の輪郭が見えるようになってきた。

ああ、わたしの形がみえてきた。

それまでよく着てた黒よりも、白の方が落ち着くことを知った。ある日、全身白を着てみたら、いちばん「自分」でいれる気がした。ああ、わたしは「白」がすきなんだと思った。黒の服は、数着だけ残して、全て捨てた。

赤をお部屋に置くと、違和感を感じるようになった。わたしにとって、「赤」はあんまり必要じゃないみたいだった。その代わり、「青」や「黄色」を置くと、心が喜んだ。わたしは、「青」や「黄色」がすきなんだと知った。

グリーンがあると心が安らぐことを知った。壁に映画を映し出すと、幸せな気持ちになることを知った。TVはわたしの人生に必要ないと思った。ロフトは夏が暑くて眠れないけれど、悪くはないと思った。キッチンの横に置くワゴンは、ステンレスが気に入った。ご飯を食べるダイニングテーブルの表面は、ブラウンじゃなくてクリームページュが良かったからペンキで塗った。本はカテゴリーごとに分けて置くと、スッキリした。食器は、透明のガラスのやつが使い心地よかった。鏡は、なみなみのやつが可愛いと思った。髪色は、アッシュベージュに落ち着いた。

自分の「体感」で、わたしはわたしを知っていった。

世間一般的な「正解」のために生きた。社会課題の「解決」のために生きた。自分の「ビジョン」のために生きた。「大切な人の夢」のために生きた。「自分のことじゃないこと」に、沢山寄り道した。沢山遠回りした。すごく時間が経った。気づいたら30歳になった。でもこの軌跡を振り返ると、わたしは今、自分が20代経験したかった全てを経験していた。感じてみたかった色んな種類の感情を知った。きっと人がしないような苦労をした分、人が見れないような景色をみることができた。そして、今、人が感じないような種類の「よろこび」を感じているのだと思う。

自分のまんなかに、辿り着いた。

だからそこにはあまり人がいないけど、それでも良いと、思うことができた。自分という人間を、30年かけて丸一周して、また最初のスタート地点に戻ってきた。遅いのか、速いのか。きっと、人生が終わっても一周しない人の方が、多いと思った。死ぬまでにわたしたちは、一体自分を何周するのだろうか。わたしはこれから2周目を始めるけれど、きっと、どちらかと言えば、速いんだろうか。

子供の頃、小説を描いた。

あの頃と全く同じ気持ちで、大人になった今、エッセイを描いている。

誰かに届けたいとか、何万部も売りたいとか、もう、そういうことじゃなくて、ただ、この世界に心ゆくまでうっとりして、目の前にある景色に気が済むまで惚れ惚れして、自分が描くものに、それ以外の何をも気にすることなく没頭して、思いっきり夢中になっている。ただ、それだけなんだ。

気づいたら、朝になる。心からすきなこと、やりたいこと。本当に望むことをしていたら、時間という概念がない世界を生きる。

夢を追いかけて生きること、感覚的には、そんな感じ。

「それなりの幸せ」は、要らない。「究極のよろこび」が、欲しい。この世界は、陰陽の対価交換。だからきっとこの先も、沢山苦労する。自分がいちばん欲しい感情のためだけに。

わたしの「自分2周目」は、一体どんな景色がみれるんだろうか。

みんなは今、どこを生きていますか?

もしもどこかで交わることができたら、その目に映る世界の美しさを、ゆっくり語り合えたら嬉しいです。

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