空の世界を、生きること。
人と違った。
この世界に生きるひとりひとりが違うことなんて重々分かっているけれど、それ以上に、わたしは人と違うと思った。
良いとか悪いとかじゃない、ただ違う。
ある日、理解してもらいたいと思うことを手放した。それはわたしの完全なるエゴだと思ったし、そもそもどれだけ説明したとしても「それ」を理解してもらうのは不可能だと思った。本当に理解してくれる人は、説明なしでも理解してくれることを知っていた。だからそうじゃないと分かりながら説明することに何の意味があるんだろうと、とても空虚な気持ちになり、わたしはいつの日かそこに時間とエネルギーを使うのをやめた。
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少し怖いくらいに、自分が望んだものが次々と手に入るようになったのは、全面的な自己受容が完了した今年の4月頃からだった。
魂の引き寄せは、全て自分のエネルギーに起因すると思う。
また人と違うくなるのか、と思った。
それならいっそ、ひとりだけの世界を生きたいと思った。そんなこと、初めて願うわけじゃないのに。
でも、わたしはこれまでも今もこれからも、どんなに望んでも、そうはさせてもらえない。
勝手に世界とも繋がって、自分以外の人も繋がって、ありとあらゆるエネルギーが、まるでわたしのものかのように同一化する。どこまでも勝手に。
愛や人の温かさや深い繋がりを渇望してる人たちが沢山いるのは、分かっている。でもわたしはそうした類のものも含めて、全てを断絶して、無を生きたいと思ってしまう時がある。
愛されてしまう、助けられてしまう、
結局、生かされてしまう。
たとえ望んだとしても望まなかったとしても、そんな風に、その時欲しいものを手にして生きてしまうことが、本当に嫌になってしまう時があった。
今だってそうだ。
わたしが受け取るのを少し拒んでしまうほどに、運命がひとつひとつ進んでいって、目の前に必要なものが用意される。
そんな光景を目にして、ひとりの世界を生きるのはとても難しいと思った。
結局わたしはその愛を受け取って、循環させてしまう。それは世界のためなんかじゃない、誰かのためでもない、循環させない不自然さに気持ち悪さを感じる、自分のためなんだ。
エネルギーが回る、入って抜けて、巡っていく。
「全てのエネルギーを遮断したい。」
そう話した時に、「全然良いと思うよ」って言ってもらったのは、初めてだった。
「仏教の世界では、それを『空』と呼ぶよ」
そんな風に教えてもらったのも、初めてだった。
良いんだ。わたしは思う存分、ひとりの世界を生きて良いんだと思ったら、心の底から嬉しさが込み上げてきて、自分の中の氷が溶けていくようだった。
空の世界を生きる。
そうじゃないと、生み出せないものがある。そうじゃないと、感じれない純度がある。そうじゃないと、出逢えない自分がいる、見れない景色がある。
愛も感謝も喜びも、全てを断絶して、何かに引っ張られることなく、今、ただ無を生きたい。生まれた時のような、まだ他の何のエネルギーとも繋がっていない、自分だけのエネルギーで。自分だけの世界で、描きたい文章がある。
ずっとなんて無理なのは分かってる。せめて半年でいい、せめてこの数時間でいい。
大多数の人に理解してもらえなくてもいい。わたしはただ、自分の「空」の中だけに存在する種類の美しさを、今、全力で獲りにいきたい。
そこに絶大な価値を、感じている。