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れいゆ大學② 《天文学》相対的スタアと絶対的スタア
原稿用紙9枚。2075文字。
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著者 れいゆ
星を見るのが好きだ
夜空を見て考えるのが
何より楽しい
百年前の人
千年前の人
一万年前の人
百万年前の人
いろんな人が見た星と
僕らがいま見る星と
ほとんど変わりがない
それがうれしい
「嘲笑」詞:ビートたけし 曲:玉置浩二
星は瞬く。夜空のスタア。月から見れば、地球も星よ。星座の一部になっている。
地下アイドルなんかやめちゃって
芸能界のてっぺん目指さないか
白い壁にコマネチって書いて?!
by 岡田あーみん ならぬ 岡田あいみん
あるいは、「世界ウルルン滞在期」の下條アトムのナレーションが聞こえてくる。
フランスのど田舎で…
相対的虚無と…
絶対的虚無が…
出会ったぁ…
人類が文化や文明の中で生きていくとき、基本的に、物事や人物や出来事を比較する。
何かと何かを対比させることで、思考したり行動を決定したりする。
大森靖子は超歌手を名乗り、吉田豪はプロインタビュアーを看板に掲げる。これは《相対》である。ほかの歌手やインタビュアーと一緒にされては困りますよという自意識が、職業名になるほど主張しているのだ。
しかし、遠藤賢司はというと、「純音楽家」と称した。これは《絶対》である。エンケンの純音楽家という肩書きは、ほかの歌手より凄いという意味ではない。自分自身と闘い、自分自身の内面に向かいながら外側に爆発している。大森靖子や吉田豪とは格が違うのだ。おっと、これは《相対》である。
高田渡は最終的に「シンガー」とか「歌い手」と名乗っていた。これは遠藤賢司の「純音楽家」よりも凄い。まったくシンプルだ。内なる自分に向かっているわけでもない。街の人々の姿も高田渡にとっては風景であり、自分自身もまた風景だ。高田渡は《絶対》のさらに《プリミティブ》な存在である。
《絶対》は眼前に広がる宇宙の本質から逃れられないが、《相対》はいくらでも誤魔化すことができてしまう。
ビートたけしの毒ガス漫談は《相対》だが、《絶対》でしかない火薬田ドンは逃げも隠れもできない。花火を上げ、自らも水に落ちたりするしかない。
タモリのハナモゲラ語は始まりは《相対》に感じるが、やがてそこにはほんとうに意味や目的がないことが露わになったとき、聴衆は《絶対》に覆われる。
《相対》の地下アイドルがどれだけ人気を得ても、そこは地下のようだ。あらかじめ意図があって「地下」と称しているからだ。もちろん、《絶対》の天下人のタレントが売れなくなったなら、そこは地下ではない。「天下」は地上にあるからだ。
ジェンダーレスはジェンダーレスと言えば言うほど、対象者は女性あるいは男性に感じられ、《相対》をなくそうとすればするほど《相対》でしかない。逆に、アンドロギュヌスは、一方の性別を否定していないので、《絶対》である。両性具有は全肯定の世界だ。
自己愛者は《相対》が分裂して同時進行だ。すると賢かったはずの人間が、矛盾だらけの話をし出す。たとえば三島由紀夫。彼の最期の市ヶ谷駐屯地バルコニーでの演説は、まるで滅茶苦茶である。しかし、三島は《相対》に生きる者たちに影響を与えた。つまり、左翼に対する右翼である。だが、《絶対》である深沢七郎のような人々には、三島マジックは通用しない。
だが、《絶対》は《相対》を含む。赤木しげるや最強伝説黒沢は、冷静に理論を打ち立ていき、状況や相手の心理を分析することで、啖呵を切ったり闘いを解決していった。《絶対》の中で、《相対》を尽くし、《絶対》に還っていく。
神々が無数に存在するギリシャ神話や日本神話に対して、アブラハムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)は、創造主という唯一の神がいるだけだが、しかしイエスや聖母マリアやムハンマドや聖人や天使など、結局、事実上の神々がいて、《絶対》のよりよい説明のために《相対》を必要とする。
あるいは、王子の誇りに囚われているベジータやフリーザは、孫悟空に勝てない。地球を征服したいDr.マシリトは、スケベなだけの則巻千兵衛博士や邪気がないアラレちゃんに勝てない。だが、悟空も千兵衛博士もアラレちゃんも、《相対》あっての《絶対》である。
「ドラゴンクエスト2 悪霊の神々」で、やっと見つけたサマルトリアの王子は、ローレシアの王子に言う。「いやー、さがしましたよ!」そうしてテレビゲームのプレイヤーという《絶対》は、《相対》を知る。
ウディ・アレンは映画「地球は女で回ってる」の中で、あれこれ悩み、無駄足を踏んだりするが、結局はタイプライターに向かう。《相対》を経て、《絶対》に向かっていく。救済が待っている。
北野武監督の映画「TAKESHIS'」で、一般市民たけしは、テレビスターたけしを殺そうとする。ビートたけしという一人の稀有な存在の中に、《相対》と《絶対》がある。
ユダはイエスに嫉妬し、キリストは発光する。
しかし、もはや《相対》しか語らない者は、何も信じていない。相手のことも見ていない。客観視もしていない。《相対》だけなら、神様はいない。
《相対》は《絶対》を言葉として使うが、《絶対》は《相対》を肉体として使う。
おしまい♡
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