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パロディの素直


れいゆ大學②⑨ パロディの素直


※敬称略


すでに実存は混ぜられ、誤魔化されている。

普段見ない日本テレビのほうのものまね番組を見た。最近、ものまね界は写実派が一大勢力として猛威を振るっている。本来はものまねは声色をそっくりにする必要はないが、昨今の日本人は受け身でお客様目線の生活様式であるので、芸人の側も客の側も、ものまねの対象であるご本人そっくりのものを好む傾向が強い。テレビにたくさん出ているお笑い芸人やタレントの、しかも実際に話した内容をそのまま真似する人が多いのである。それは本人を見たほうが面白いと私は思うのだが、一般的にはそうでもないようである。清水アキラは「自慢になってしまうものまねはダメだ」と釘を刺していたが、残念ながら現在の潮流は違うようなのだ。かつてのフジテレビのものまね四天王は、声色が似ているレパートリーもありつつ、多くは演芸というものそれ自体の魅力で湧かせていた。いわゆるものまね芸人ではないタモリに至ってはまったく声を似せようという気はない。寺山修司なら寺山の思想を憑依させるのであり、正確なまでの声色はむしろ不要である。さらに昔の、声色もしくは声帯模写と呼ばれていた頃の桜井長一郎などは、もっとシンプルだ。このように、ものまねという芸は、本来は写実が目的ではないのである。なぜなら、声や動きがそっくりなら本人のほうがいいからであって、偽物の可笑しみは半減してしまう。では、優勝者を決めるものまね番組は何が基準なのか。そこには何の共通の意識もないからこそ、審査員に素人を含むさまざまな人を座らせるのだ。しかし、よいものまねとは何かを知っているのが、真のものまね王者たちである。ものまねは最も面白さがわかりやすい芸能だが、どんな芸事でも、「上手い芸」「面白い芸」などと言う。立川談志は最後の著書で「上手いってそもそも何なんだ」と疑問を投げかけた。談志は技巧も名人でありながら、真の狂人には絶対になれないラインで、イリュージョンを試みた。


ものまねでイリュージョンを担ってきたのは、紛れもなくコロッケだ。なぜなら五木ひろしはロボットではないし、野口五郎は歌っているときに鼻くそを食べないからである。しかしコロッケがそれを演じると、理屈を超越して笑ってしまう。これこそが《よいほうの思考停止》なのである。そんなコロッケがものまね番組を引退した。


最後、彼のスペシャルショーで幕を閉じたが、そのときに写実派の後輩たちがまさにコロッケの笑いのためのフリになっていた。この世のすべてのものまね芸は、破壊的なイリュージョンとナンセンスの芸をするコロッケのための前フリなのかというくらいに、その対比は明確に示されていた。写実派の人が登場するたびに、コロッケ派(神奈月、古賀シュウ、あるいはザコシショウ)の存在が輝きを持って際立った。笑いを最重視しているのだから当然そうなるが、その事実に写実派の芸人たちは自覚的なのだろうか。ともかく、そのコロッケが去った。では何が残るのか。タレントとVtuber、顔を出すアーティストと顔を隠す人、いま放送されているテレビ番組とネット上の過去の映像、人間とAI、現実と架空。すでに実存は混ぜられ、誤魔化されている。シン・エヴァンゲリヲンで碇ゲンドウは反省したのに、現実では碇ゲンドウみたいな奴が大勢いて素知らぬ顔でメディアや業界を牛耳っている。また一般人もその状況展開に同調する。すべてを混ぜればOKみたいな幼稚な考えと、写実派ものまねは親和性がある。考えなくていいし、「確かに似ている」という感想を抱くだけでいいからラクなのである。コロッケがフジテレビのプロデューサーと喧嘩して自ら立ち上げた日本テレビのものまね番組。そこからコロッケが去るという時代の流れの切なさ。コロッケはどこから来たのか?コロッケという名前はいったい何なのか?大御所なのに照れながらものまねするコロッケに、能狂言に連なる「まねぶ」精神の本質が遊んでいる。明治を超え、江戸を超え、平安を超え、さらには神話の時代に人類の記憶は誘われる。イザナギとイザナミの国産みの刹那の妖しい明滅の向こう側から、 ロボ北島三郎のコロッケがド派手な演出で浮かび上がる。日本列島を生み出す燃えたぎる熱は、まさに芸能の臨界点。祭りだ、祭りだ。豊年祭り。ずいぶん前に、ドキュメンタリー番組で野村萬斎が、代々伝わる芸を継承させる子供たちと食事をしながら、テレビに映るコロッケを見せて、笑いながらつぶやいた。

「コロッケ、狂言なんだよなあ」

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