れいゆ大學①⑨ 《ジェンダー論》 性と文化の革命 〜紅白ワッショイ!
【黒の舟唄VS紅白歌合戦】
野坂昭如は「黒の舟唄」で「男と女のあいだには 深くて暗い河がある」と歌った。これは決して、ヘテロ主義にあらず。
振り返るな。そこには深い河がある。でもそんなに違わない。
美少年好きのバイセクシャルであり、動物のヤギともセックスしたことがある昔の人・野坂昭如は、性の心理を知っている。その上で、男と女があるよね、と言っているのである。
紅白歌合戦ジェンダーレス路線を、野坂昭如はどう見るか。
ちなみに、野坂昭如の立川流Bコースでの落語家名は、立川天皇である。
【女性器と男性器の違い】
アダムの肋骨をイヴにしたとき、創造主にどんな気まぐれがあったか知らないが、女性器と男性器はアンバランスである。
女性器は、セックスをする膣と、おしっこをする尿道と、勃起をするクリトリスが別々になっている。しかし、男性器は、射精と尿と勃起をひとつの陰茎が担っており、機能ごとに部位がわかれていない。
卵巣は体内にスリムに収まっているのに、精巣は睾丸として防衛上危険な形で外側にぶら下がっている。まるで日本列島の沿岸に並ぶ原発のように。
女性の体では副交感神経優位になりやすく、男性の体では射精したら一気に交換神経優位になる。かみさまではない限り。
このことについては、「なんでもおまんこ」という詩を朗読している詩人王・谷川俊太郎でもわからない。
【二十億光年の孤独】
詩人の王様・谷川俊太郎のアヴァンギャルドな詩集「夜のミッキーマウス」に所収されている詩、「なんでもおまんこ」。私はこの詩は、かなりマッチョな感じだなと感じる。
風景の断片を女性器に喩えながら、そのメタファー自体を否定しているのである。そして、その恥じらいこそが、男性的であると言える。
この世界で谷川俊太郎だけが女性器ではないというなら、まさに「二十億光年の孤独」である。
【紅白歌合戦ジェンダーレス的価値観不要論】
NHK紅白歌合戦は当世流行のジェンダーレスを表現したいらしく、デザイナー佐々木俊は赤と白が混ざり合ったロゴをつくった。じゃあ何で紅白歌合戦なんだ??
そうした紅白不要論を古舘伊知郎は批判している。シンガポールに住む中田敦彦からYouTube指南を受けた古舘伊知郎は、トーキング・ブルースで語られてきたような仏教的価値観を投げうって、森羅万象を批評しようとしている。
日本民謡のソーラン節でも、アメリカのブルーズやR&Bでも、歌というのは大抵セックスの暗喩である。性を忌避することこそが性的である。
日本のフェミニストにボーイズラブ好きが多いように、人間は性から逃れられない。
春歌でない歌もまた春歌だったりする。
ジェンダーは個のものではない。
芸能は神に捧げるものである。
紅白歌合戦のプロデューサーのインタビューを読んだら、「時代に合わせて変えなきゃいけない」という理由で悩んでいて、その人の考えは何もなかった。
どだい、賑やかしのコーナーを散りばめて純粋な歌番組ではないのに。桑田佳祐が「ひとり紅白歌合戦」で脱構築してしまっているのに。
しかも、どっちが勝ったかなんて気にしている人はほとんどいない。それなら、むしろ本気で戦ったほうがいいかもしれない。
さらに、男女混合のグループはたくさんあるから、紅白は最初から崩壊しているのだから、紅白と題すること自体が面白い。
紅白をなくすよりも、男の子で生まれた女の子が紅組に出てほしい。もっと普通に何の説明もなく。
【第3回中津川フォークジャンボリーから50年】
視聴者の抗議を気にしているだけの悩みより、BiSHの子たちが自分の意思ではなく下ネタを言ったほうが重大な問題ではないか。
かつてフォークシンガーや日本語ロックの大きな祭りがあった。1969年から1971年まで続いた全日本フォークジャンボリーだ。岐阜の中津川にある椛の湖で開催されたので、中津川フォークジャンボリーと呼ばれる。のちの音楽フェスの原型だ。
特に第3回は規模が巨大になった。その中で、岡林信康が失踪したり、安田南が聴衆と口論でやり合ったり、吉田拓郎がバッシングされたり、高田渡がそれらを冷めた目で見ていたりと伝説がいくつかあるが、三上寛がステージで「おまんこー!」と叫んだことも有名である。
その50年後、BiSHの彼女たちが紅白歌合戦の記者会見で言った「ちんぽー!」と、三上寛が1971年の第3回全日本フォークジャンボリーで言った「おまんこー!」では、主体性の有無の違いがある。
三上寛は中津川のステージにギター抱えて、多くの聴衆に向かって主張的なギャグとして叫んだが、50年後のBiSHの掛け声は誰かにやらされている感じを拭えない。
彼女たちは芸能者として得をしていない。普段とは違って日本全国にパフォーマンスを披露する機会なのに、ファン層でない人からしたら、どう受け取っていいかわからない。
昨今のフェミニズムや多様性の潮流の実質的失敗の現れが見えてくる。
【伊藤野枝のたいまつ】
ジェンダーはなくセックスだけがあるというような伊藤野枝的感覚は、決して、戦後家父長制的なものではなく、すべてフェミニズムも分解される。
伊藤野枝(1895-1912)は、明治から大正にかけての婦人解放運動家である。フェミニズムの日本版の源流だ。
しかし彼女は、平塚らいてふや神近市子とは異なった。もっと体験的な人であり、ダダイスト辻潤とアナーキスト大杉栄に恋をし、そして故郷ではいまだに忌み嫌われている。
関東祭震災直後のドサクサに紛れて、甘粕正彦らに、大杉栄と甥っ子とともに暗殺された。この頃、在日朝鮮人が多く命を奪われ、アナーキストや左翼活動家も殺された。
100年前のフェミニズムと反りが合わなかった伊藤野枝は、タイムスリップして21世紀に現れても、昨今の日本でのフェミニズムをもはや批判すらしないだろう。
神近市子は大杉栄を刺し、詩人の高橋新吉は「俺が元祖ダダイストだ」と辻潤を刺しに行った。MajiでKillする5秒前である。
しかし、甘粕は最低の軍人だ。幼い子まで殺めている。
伊藤野枝は辻潤を捨てたが、誰も刺していない。そのかわり、自らの過去をKillしている。
私のブログは「かざせ、たいまつ」というが、伊藤野枝もたいまつをかざしていた。
ドラゴンクエスト1のように、自分の半径1.5メートルしか照らされない「たいまつ」で、愛する人と洞窟を歩いていったのだ。
【kamisama = onnanoko】
ボブ・ディランは「神は女だ」と言いました。
かみさまは、女の子もしくは子供の姿をしている。実存的な両性具有である。
【昭和の二人のスサノオ】
石原慎太郎と三島由紀夫。
石原慎太郎はヘミングウェイ的な強い男の世界である。日本風に言えば戦後家父長制的である。完全なるヘテロセクシャル。
三島由紀夫はバイセクシャル的なホモソーシャルの世界である。そこには妖しさがある。
森田必勝はなぜそこまで三島についていったのか。物理的な意味での恋人関係ではなくても、そこには言いようのない絆があったのだろう。
楯の会は自衛隊を類語的に再ネーミングした名称を名乗りつつ、じつは「楯になるよー!」と精神的勃起を誇張している。それは、石原慎太郎の「太陽の季節」の障子破りとも関係がある。
石原は若い頃に支持してくれた先輩、三島由紀夫へのコンプレックスがある。男色と切腹とコスプレの変態カリスマ・三島のようにはなれない。石原が口をついて出る言葉は同性愛は頭の病気とか、三国人がどうとかで、それはすべて嫉妬である。
美輪明宏との友情、天皇を揶揄した深沢七郎への賞賛など、三島はつねに石原の思考の外にいる。
そして、その三島は、天皇のようになれない。
美智子様とのお見合いというニアミスはあったが、三島は神の一族ではなかった。彼はそこからこぼれ落ちた名門一家の武士の、さらにその子孫だった。
皇室はアマテラスの末裔。そうした神話を信じる人は現在少ないが、そうでなくてもやはり、眞子さまが普通の女の子だったことを知ったときに大衆は拒否反応を示した。あの騒動の原因は、小室圭さんではなく日本人の側にあるのではないか。
【天城越え→わさび沢】
石川さゆりが歌う「天城越え」は「山が燃える…」などと、ヤンデレにもなれない哀しきストーカーの女の人の歌だ。この歌の主人公のお姉さんは、好きな人にじつは普通に話しかけてすらいない可能性がある。好きな人の存在以外は、すべて妄想かもしれない。
しかし、このお姉さんは、「わさび沢、隠れ路…」などと情景描写はすごく上手い。それがまた苦悩と開き直りに拍車をかけている。
ほんとうは普通に仲良くしたい「あなた」よりも、天城峠という「山」のほうが主題になってしまっている。その認知のずれをどうしたらいいのだろう。
とりあえず、天城越えはシリアスだから、「わさび沢」という題名にしてみたら、いかが。
ちなみに、石川さゆりも「黒の舟唄」を歌ったCDを出している。
【マリリン・モンローはアメリカよりも大きい】
「オズの魔法使い」のドロシーがハリウッドよりも精神的に大きい存在ゆえに、ドロシーを演じたジュディ・ガーランドは大いに苦悩し、神経症と薬物中毒と電気ショックの人生を過ごした。
野坂昭如のもう一つの代表曲は「マリリン・モンロー・ノー・リターン」だが、モンローもまた、ケネディ家よりも大きな存在だった。しかし物理的にはそうではない。
モンローのワンピースのスカートが舞うのは当然、カメラに写っていないところに設置された機械が風を送っていたからだ。アメリカの正義は、すべてが虚構だった。
その虚構や流行から、好きなもの、信じるもの、見つけるのが人生だ!
なぜなら、ショービジネスの世界で苦しんだマリリン・モンローや、ジュディ・ガーランドのほうが、ほんとうは「現実」だからである。アニメじゃない!
女神であることは、女らしさも男らしさも内包する。
【kamisama = ohinasama】
僕はかみさまだから、ひなまつりの日に生まれた。
【昔の紅白歌合戦】
ヘッダー画像は1983年の第34回NHK紅白歌合戦。
総合司会はタモリ。
前年の紅白歌合戦では、サザンオールスターズの桑田佳祐が着物を着て、三波春夫の真似をして「チャコの海岸物語」を歌い、顰蹙を買った。
この年に三波春夫が歌ったのは、「放浪茣蓙枕(さすらいござまくら)」という歌。なんだか、すごい。
わん!