れいゆ大學①③ 《戦後文化史》笑点とドリフとイッセー尾形
「記憶が戻ったんだ。私は、私だ。記憶が戻ったら、なんだって出来る」
2022年1月1日、「相棒」。イッセー尾形演じる記憶喪失だった裁判官が言う。まるでゴダールの映画のセリフのように。そして彼岸の彼方から聴こえてくる「ズンドコ節」。夜明けだ。
れいゆ大學①③ 《戦後文化史》笑点とドリフとイッセー尾形
ゴダールはアンナ・カリーナと別離した。アンナは「勝手にしやがれ」では警察に通報してジャン=ポール・ベルモンドに「最低」と言われ、「気狂いピエロ」では浮気をしてジャン=ポール・ベルモンドに殺されてしまう。
ゴダールの2番目の妻はアンヌ・ヴィアゼムスキーである。アンヌは「中国女」で大学教授フランシス・ジャンソンを暗殺する。この大学教授を演じるのは役者ではなく本人である。
ゴダールの3番目の妻はアンヌ=マリー・ミエヴィルである。彼女はもともと歌手で、ゴダールの前衛映画集団にスチールカメラマンとして参加した。
ゴダールは左翼運動と犯罪革命映画の異人であり、映画の歴史そのものをまとめようとした偏屈アートやくざだ。
「笑点」の新メンバーがまたしても立川流ではなかった。予定調和が嫌である。洒脱なことが最善である。談志イズムが「笑点」に帰還することは、どうもあり得なさそうだ。林家木久扇のナンセンスなジョークによって救済される日本の夕暮れだ。第100代内閣総理大臣の岸田は、ほかの自民党大物と比べると一見いい人そうに見えるし、歌舞伎役者のような二枚目だが、喋り出したら役人みたいだった。岸田は総理大臣なのに秘書のようである。彼には北朝鮮問題を解決できない。
「笑点」は立川談志がつくった。1966年5月15日、「笑点」放送開始。当初はブラックユーモアのある番組だった。1969年、番組の方針で談志と大喜利メンバーが対立。5人が降板。その年の冬、談志が参議院議員に立候補し落選。二代目司会者は放送作家の前田武彦。談志はニッポン放送で、月の家円鏡(いまの橘家圓蔵)との即興漫才のような「談志・円鏡 歌合戦」がヒット。1971年6月、再び談志が参議院議員に立候補し当選。前田武彦に続き、てんぷくトリオの三波伸介(初代)が三代目司会者に。二代目と三代目は落語家ではなかった。1982年に三波が永眠し、かつて回答者だった三遊亭円楽(五代目)が司会者に。ここで談志と同世代の落語家による「笑点」に戻り、そして談志がつくった「笑点」から最もかけ離れていったのではないだろうか。1983年、談志一門が落語協会から脱退、立川流を創設する。「笑点」が実際の落語界と切り離された象徴的な出来事は、「笑点」の外側にあったようでもある。
ザ・ドリフターズの志村けん追悼のドラマは素晴らしかったのだった。すわしんじの存在や、志村けんが井山淳と組んでいたマックボンボンや、志村けんが弟子入り後に脱走して一度辞めていることなどは描かれなかったが、すごく愛があった。
コント役者ではない人たちの中で、勝地涼だけが完全にコントの演技をしていて、恐ろしいものがあった。ほかのメンバーを演じた役者はみな、コメディアンが持つ《死の匂い》と少しだけ違った。しかし、勝地涼は最初から最後まで加藤茶であり、そしてコメディアンだった。ミュージシャン系のコメディアンのリズムがあったので、最近のお笑いの人よりも昔の芸人っぽかった。勝地涼は戦後芸能史上稀に見るとんでもない芸能者である。
「笑点」の新メンバーは勝地涼がよかった。だってそもそも、立川談志と松本人志という二人によって、大喜利的に発想することがポピュラーになったいま、落語家である必要もないのではないだろうか。
そして「相棒」元旦スペシャルでのイッセー尾形である。凄かった。《お笑い界の純文学》としてのイッセー尾形は、コントの演技とドラマの演技のどちらでもない演技を孤高に披露する。
記憶喪失の裁判官は、まさに一人芝居のときのイッセー尾形だった。アイデンティティは喪失したのか混ざり合っているのか。
タモリがものまねをするときに声色をそんなに変えずにタモリのままでものまねをするように、イッセー尾形もイッセー尾形のまま都市の架空の人物に憑依する。
「笑点」の新メンバーはイッセー尾形の一人芝居のように、毎回変わってもよかった。
あるいは座布団が並ぶ中でひとつだけ小さなブラックホールが鎮座していればよかった。「でこぼこフレンズ」のあなくまが持っている穴みたいに。そこから先代の林家三平が顔を覗かせて「どーもすいません」と言うだろう。
志村けんの銅像が「笑点」新メンバーというのはどうだろうか。銅像になってずっとアイーンをやっていたら肩が凝る。バカ殿様だから江戸時代の格好をしているし。だが無理だ。女好きの志村けんさんは腰元ハーレムがいなければ退屈だ。
ところで「笑点」のメンバーが変わったのは、林家三平(二代目)が降板したからだった。二世タレントは確かに最初から芸能界にいるようなものだから有利ではあるが、偉大な親を持ったり立派な家に生まれるのも大変である。
タモリの初期の座付作家でもある放送作家の高平哲郎の著書「星にスイングすれば」(晶文社)を読むと、42年ほど前の林家三平(初代)との会話が載っている。
「ウディ・アレン、チャップリンは天才ですね。僕らは天才ですから、天才は天才のことはよくわかる(笑)ペーソスのある人は売れますね。藤山寛美さんとか、ペーソスがある。僕もペーソスを・・」。
そう三平が話すと、タモリや赤塚不二夫らと理屈を超越した笑いをつくってきた高平は言う。
「そうですか?師匠!僕は三平師匠には、日本人が笑いというといつもいっしょくたで欲しがるペーソスのぺの字もないから、素晴らしいと思うんですけど・・。カラッとしたナンセンスがたまらないんですけど・・・」
そこで三平が、奥にいた海老名香葉子夫人に向かって言ったのが、
「おーい、この先生、ペーソスなくていいって!」
咄嗟に、ペーソスをお客さんに出す料理のソースみたいに言ったこの豊かな軽さは、なるほど、ペーソスを超えているのだった。
ゴダールは芸術家だしフランス人だし左翼だから、すぐに人を死なせたり殺させたりするが、落語家やコメディアンはそうではない笑いをつくらねばならなかった。
イッセー尾形の一人芝居は、誰も死なない。ギャグさえもなく、日常や人間の歪さが裸舞台でじわじわと明るみになっていく。
一方で、広沢虎造の浪曲「清水次郎長伝」で、「バカは死んでも直らない」という名文句があるけど・・・。
資料:高平哲郎「星にスイングすれば」(晶文社)