ビートたけしと初代市川團十郎
※こちらはホームページのブログのよりぬきです。
破壊と再生、死と笑い、道化と権威、悪と善、コントと歌舞伎。
他殺と自殺のヤクザ、暴行と恫喝の刑事、生徒を殺し合わせる教員、絵画と妻しか頭にない芸術家、新興宗教の幹部、昭和の凶悪事件の犯人、そして菊次郎。
黄泉の海岸に、花火が上がる。
ビートたけし(北野武)は、戦後芸能史の象徴であり、そして実際に多くの芸人やタレントたちの面倒を見る大親分だ。
この国の芸能を寿ぎ、そして国際的な映画界の重要人物でもあるビートたけし。彼を育てた最初の師匠は、深見千三郎というコメディアンで、浅草のストリップ劇場の幕間で芸を磨いたほとんどの役者は彼の弟子だ。
その深見千三郎は、浅草に流れ着く以前、京都で片岡千恵蔵に世話になっており、千三郎の千の字は千恵蔵から受け継がれたという。
片岡千恵蔵は、十一代目片岡仁左衛門の弟子で、一般家庭から上方歌舞伎の世界に入った。
千恵蔵は才に秀でていたが、やはり門閥の外の存在。遙か江戸の頃から流れる誇り高き血縁を持たず、養子にもなれない者に、歌舞伎界は冷たかった。
そして時代劇映画ブームの折、片岡千恵蔵は舞台を去り、撮影所に入社し、映画スターとなる。歌舞伎の修行で培われた技芸を携え、スクリーンの中でチャンバラし、一世を風靡するのだ。
さて、十一代目仁左衛門の父は八代目仁左衛門。彼は七代目仁左衛門の養子だが、その前に七代目市川團十郎の養子でもある。
ということは、ビートたけしの師匠の師匠の師匠の師匠の…と辿っていけば(父親や養父がほとんどだが)、江戸の町で歌舞伎が被差別者たちの生きる術だった時代の、初代松本幸四郎と初代市川團十郎に行き着く。21世紀の当代たちの祖である。
初代松本幸四郎は丁稚から役者になった人物と伝えられているが、初代市川團十郎は文字通り、歌舞伎者である。千葉のやくざ者であり、河原者であり、はぐれ者だ。
現在の市川海老蔵のご先祖様である成田屋の祖、初代團十郎は、同じ役者の生島半六の息子を苛めたことをきっかけに、舞台で芝居を演じている最中に半六に刺殺されたと伝えられる。
生島半六は投獄後、まもなく命を落とす。彼の師匠である生島新五郎は、罪滅ぼしのように團十郎の息子である二代目市川團十郎の師となり、芸を伝える。
死と隣り合わせではない芸能や芸術などあるだろうか。
死を内包しない生など、あるだろうか。
江戸時代の差別構造において、士農工商よりも下に位置する人々が、今日に繋がる芸能を犠牲のもとに紡いでいった。
現代では歌舞伎俳優たちは国家に守られているほどの存在だが、もともとは彼らは河原者だ。穢多頭である浅草弾左衛門の支配下から抜けたあとも、江戸町内を歩く際は、被差別者のしるしである編笠を被らなければならなかった。このあたりのことは、塩見鮮一郎「弾左衛門の謎」(河出文庫)などに詳しい。
彼らは芸能を選んだのではない。それしかなかったのである。
昨今の日本では、差別や権利というものが非常に浅いところで語られることが多いが、ほんとうに差別や弾圧を受けた者たちは、そのことを語ることすらできない。
芸能は、差別から生まれた。
だから、笑いが差別を必要とするのは当然である。
あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ。ははは…。(ソナチネ)
弱くてもヤクザにタカれるんだからよ。いいよなあ、警察は。(アウトレイジ)
匂いだよ。どんなに誤魔化しても、犬畜生の匂いは消せねえぜ。(座頭市)
人生はゲームです。みんなで必死になって闘って、生き残る。価値のある大人になりましょう!(バトルロワイヤル)
あいつら、芸術、わかんないんだよ。(アキレスと亀)
悲しいときや苦しいとき、この鈴、鳴らすと、天使が降りてきてくれて、助けてくれるんだって。…天使、来るだろ?(菊次郎の夏)
自分の大切なものを守るということは、それは誰にでも権利があるということで、まあ、過剰防衛になったと言われればそれまでですけど、もっと暴力以外に具体的に対抗する手段はないのかと言われたら、まあ…お聞かせ願いたいという。(フライデー襲撃事件後の会見)
元旦や 餅で押し出す 二年糞! ビートたけしのオールナイトニッポン!(1981年1月1日・初回のあいさつ)
ビートたけしは、いつも、コントと歌舞伎を同時にやっている。