無我プラスワンVS自我イマジナリー
※こちらはホームページのブログのよりぬきです。
ブッダは自我なんてなく無我なのだと言う。
キリストは肉体を超えた霊性があると言う。
明治になり、日本人は自我を植え付けられた。それまでの江戸時代の価値観(差別構造のほかに、お城、ちょんまげ、混浴、同性愛、女将さん、巻物、かみさま、妖怪、おむすび、小判、下駄、襟のない服、江戸幕府etc)を恥ずかしいと感じ、西洋的価値観を主軸に置こうとした。しかし、それは「江戸に西洋ぶっ込んだら明治」と言うような無茶なコラボだった。
そのとき、それまでは強く意識していなかった「個」の教育が何となく実践された。儒教の教えも誤って使われた。
人々は「個人」になった。
西洋では個人があって社会があるのだ。だから個を超えたキリストは殺された。
人々は「自我」を手にした。自我に目覚めたと錯覚した。それまで存在しなかったのにである。仏教は無我を説いていたのにである。
それは、つくられた幻の自我だった。
日清戦争があった。日露戦争があった。関東大震災があった。満州事変があった。太平洋戦争があった。
震災の折にどさくさに紛れて殺された在日朝鮮人たちは「自我」を剥奪された。
お国のために死んでいった若い兵士たちは「自我」を剥奪された。
焼け野原の死体は、どこから誰で、どこから誰なのか、判然としない。そこに「個」はない。
生き残った者たちは「自我」を失った。しかし、もともとの「無我」でもない。
「ひび割れ自我」だ。
そして昭和20年、終戦。
すべてが「ひび割れ自我」になった束の間、なんと神だった天皇が「個人」になった。GHQのもと、人間宣言をしたのである。
昭和天皇がマッカーサーより背が低かったことに愕然としつつ、日本人は頑張って、闇市をひらき、ビルを建て、港を再整備した。
笠置シヅ子の「東京ブギウギ」や美空ひばりの「東京キッド」が日本人を鼓舞した。
そこでパワーになったのは、まぎれもなく「自我」だった。「ひび割れ自我」のまま、マイナスからプラスに這い上がった。
しかし、土の地面はアスファルトで覆われ、「無我」は遠くなった。
「ふくらみ自我」が台頭していった。
では現代の「スピリチュアル」「バリアフリー」「ダイバーシティー」「発達障害カフェ」「LGBTフレンドリー」など、これらは何だろうか。
これらは「ひび割れ自我」と「ふくらみ自我」による、宛てのない戦争と祭りのデッドヒート状態。これが60年代に唱えられた「進歩と調和」の先にある結果なのだ。
人間は愚かだ。愚かであることを知っているべきだ。「無我」を説いたブッダもキリストも人間だった。
では、どうすればいいのか?
現代では「ひび割れ自我」も「ふくらみ自我」も、そして「無我」だけでも生きていけない。
そこで現れたのが、「無我プラスワン」と「自我イマジナリー」である。
0から1になるものと、0が虚数に見えるもの。
また、夏が来る。