坐る放哉、飛ぶ山頭火
12年くらい前の写真。
種田山頭火が好きで、真似して、じぶんの俳句を詠んでいた。
てづくり句集を、ニヒル牛や井の頭公園で売ったりしていた。
以下は、昔の私が詠んだ句です。
ゲル状の浮世こそ愛はとこしえに
宿なしの朝は早く
教会を飛び出して革命に挫折した
とか何とか言わず (当時の最高傑作)
女(ひと)に逢えば我が身を呪い呪いけり
日が暮れた 小鳥の影をそっと踏む
それくらいの傷は呑み込みなさい
山頭火の宛てのない旅をしながら詠まれた俳句とともに、山頭火の書く随筆文も好きだった。
托鉢をする俳人のパブリックイメージを打ち破る、きらめくような言霊おどる哲学的なもので惹かれた。
のちに私淑した高田渡も山頭火が好きだったことを知った。江東区の森下文化センターに高田渡のサインが展示されていて、「分け入っても分け入っても青い山」と書かれてあった。
その頃は、尾崎放哉のことは、あまり知らなかった。
彼は山頭火よりも、もっとシンプルな場所にいるようだった。
有名な肖像写真も、山頭火は眼鏡をかけたり錫杖をついたりユーモラスに見えるが、薄い眉で微笑をうかべる正面からの放哉は危うさに満ち溢れていて、近づきがたさがあった。
放哉というラーメン屋のチェーン店があったら、どうも流行らない感じがする。しかし彼は元保険会社勤務だから、意外と金勘定は早そうだ。
ついてくる犬よ お前も宿なしか 山頭火
いつしかついて来た犬と 浜辺に居る 放哉
↑ おなじワンちゃんの可能性あり🐶
山頭火と放哉は、同じ時代を生きた、無季自由律俳句のバガボンド。
「層雲」を通じて互いに知っていたが、会ったことはなかった。
放哉が終の住処の小豆島で死んで、山頭火は放哉のようにどこかに定住しようと考えたという。
そして托鉢の旅をやめ、松山の庵に落ち着いた。
しかし、彼らの精神は結局、どこにも落ち着くところがなかったのかもしれない。
そして、それぞれの辞世の句は、こうだ。
春の山のうしろから烟が出だした 放哉
もりもりもりあがる雲へ歩む 山頭火
最期の句においても、二人の特徴があらわれている。
放哉はひたすら観察しており、山頭火は雲に同化していく。
坐る放哉、飛ぶ山頭火。
しかし、現代においては、坐りながら飛んだり、飛びながら坐ったりしなければ、たちまち死んでしまうようである。