れいゆ大學④⑦ 赤軍派および日本赤軍と連合赤軍の赤は「ジョーカー」か「日の丸」か
映画「ジョーカー」で、彼は赤いスーツを着ていた。従来のバットマンシリーズにおいてはジョーカーのスーツは紫だったが、差別と障害と貧困を反転させるため、悪魔に魂を売り、自らの傷を癒やし、倫理に反逆したアーサーが纏ったスーツは、真っ赤な血のような赤だった。あるいはそれは、イデオロギーを喪失した現代における共産主義の暴走。ジョーカーは、ゴッサムシティのひとり赤軍。戦争は知らない。
しかし、赤軍派も連合赤軍も日本赤軍も、貧困や差別の当事者性はなく、革命としての反権力なのである。赤軍派最高指導者である塩見孝也は、66歳で駐車場誘導員となり、そのとき初めて労働の意義を知ったのだ。
SHIGENOBU
中村敦夫主演、市川崑総監督の「木枯し紋次郎」が元日より放送開始した1972年(昭和47年)。その2月、パレスチナ解放戦線(PFLP)の義勇兵となった重信房子は、ベイルートで「君たちの仲間が日本で銃撃戦をしている」と言われた。大菩薩峠で霧散した赤軍派。半ば袂を分かった赤軍派。けれど、ついに赤軍派残党が東京で最終決戦してるんだと感激した重信は、一日遅れの日本の新聞を読むと、群馬の雪山の山荘に立てこもっているとある。思っていたイメージとだいぶ違ったが、重信らはそれを「軽井沢闘争」と呼んだ。
日本でそれは「あさま山荘事件」と呼ばれ、連日、テレビや新聞を賑わせていた。山荘の窓ばかり映っているほとんど動きのない画面に、大衆は釘付けになっていた。現在もよく言われるのは、そのとき機動隊員などが極寒の中でも凍らない食事として発売まもない日清カップヌードルを食べているのがテレビに映り、知名度と売り上げに繋がったということだが、戦後日本社会に何の問題もないと考える多くの日本人と、革命を信じる人々との乖離は、この国の平和ボケの始まりを意味した。
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