20世紀のストレイシープ(古舘伊知郎トーキングブルース2000年大晦日年越し公演)
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう」
(ルカによる福音 15:1-7)
過去を遡って、20世紀の終わりの日。
私は、お江戸日本橋にいた。
古舘伊知郎トーキングブルース「何を見ても何かを思い出す」。
2000年12月31日の夜に限り、無料の特別年越し公演が行われたのだ。
日本橋三越のショーウィンドウの中に、古舘伊知郎さんが登場する。
集まったお客さんたちは、舗道に座って観ている形だ。
その頃、子供だった私は大きなバッグに、いつか着たいと願っていたレディースのお洋服を詰め込んで、東京を野宿しながら、寄るべなく、さまよっていた。
吉祥寺駅構内の隅っこでうずくまり、寒さを凌いでいた。
井の頭公園で知り合った青年たちが、女の子たちに、「泊めてあげなよ。レイさんなら大丈夫じゃん」と笑いながら言う。
女の子たちが、嫌そうな顔をして拒否する。
日が沈んだ冬の井の頭公園に、ぽつんと佇む。
ある夜、井の頭公園のベンチで眠っていると、ふと目が覚めた。
顔に何か当たったのだ。
雨だ。空から雨の一本一本が降ってくる。
雨粒の冷たさと冬の空気によって生きている実感を覚えたことに、バカな私は、喜んだ。
次第に、雨はどしゃ降りになっていった。
こんなふうにさまよっていても、何もならない。
でも、どうせ女優さんにはなれない。テレビで女の子の役はできない。広末涼子みたいなアイドルになれない。
舞台では女の人の役はできるけど、劇団の人たちにまず普通の女の子として接してもらうのが、うまくできなかった。どこにも行く場所がない。
大晦日の昼間、コンビニで立ち読みした「ぴあ」の演劇かお笑いのページに、古舘伊知郎トーキングブルース特別公演の情報が載っているのを見て、日本橋に行った。
開演時間は夜10時半頃。
ショーウィンドウの中に古舘伊知郎が登場した。
早い時間に着いていたから、前のほうで座って見ていた。
2時間弱のあいだ、言霊の渦を巻き起こし、語り部は最後、こう説法した。
「お前らは、これから、特別に運転している地下鉄に乗って、家に帰って行くんだろう。
でもな、電車や飛行機の旅ばっかりしてるんじゃないぞ。
もっと、想念の旅をしろよ」
そして、沖縄の現代詩人、山之口貘の詩「喪のある景色」の一節を朗読して、日本橋三越のショーウィンドウは暗転した。
こんな風景のなかに
神のバトンが落ちてゐる
血に染まった地球が落ちてゐる
ポケーッとしていると、聴衆は去っていき、業界人は機材を片付け出し、三越前の舗道は閑散としていく。
そのとき、私は、どこに帰ればいいか、わからなかった。
いつのまにか、
あたりは、
21世紀になっていた。