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ミュージカル『翼の創世記』に寄せる憧憬
あの小さな劇場で。
私たちは、彼らのフライトに鳴り止まぬ拍手を送る観衆であり、彼らが夢中で計算式を書きつけたノートの切れ端であり、彼らが憧れた青空であり、
そして、彼らの輝く翼を鈍色の兵器に変えた、愚かしい世界の象徴でもあった。
『翼の創世記』
2024年11月29日から12月25日までブルースクエア四谷で公演している、石丸さち子氏によるミュージカル作品だ。
タイトルから想像できるとおり、世界初の有人動力飛行に成功したライト兄弟の生涯を描いている。
座席数100ほどの小劇場の舞台には、3人の役者とキーボードの奏者だけ。勿論アンサンブルもいない。4人は殆ど2時間10分出突っ張りで、歌われるナンバーは何と30曲を超える。これだけ説明しただけでも常識外れの、ちょっと考えられないくらいに物凄い作品であることがお分かり頂けるだろうか。
劇場入口の階段を降りると物販売り場、その先でチケットをもぎられ、ワンドリンクの支払いを済ませると「いらっしゃいませ」という石丸氏の声に迎えられる。この十数年、それなりに観劇はしてきたが演出家自ら観客を対面で迎えるスタイルは初めてで、初回はかなり驚いた。しかし、回を重ねるごとにその声掛けは私にとって自然なものとなり、安堵に近い感情すら覚えるようになった。
壁には一面、ライト兄弟の夢の軌跡。
ブラックボードとチョークを思い起こさせるそれらは、「壁面に直接描いてしまったものだから劇場をお返しする時に改めて壁を黒く塗り直すんですよ」と、15日のアフタートークで石丸氏が笑いながら話していた。
そして、ライトフライヤーの格納庫として使われているあのスペースも、本来の用途は楽屋なのだと聞いて驚いた。限られた空間を広い青空に見立てるための工夫がそこかしこに散りばめられていたということだ。
物語は晩年のオーヴィルの日常から始まる。奥のドアから足を引き摺るようにして登場するオーヴィルは、小脇に郵便物の束を抱えている。その顔はやつれ、年老いた彼の苦悩を彷彿とさせる。
オーヴィルは語る。今日、久し振りにインタビューを受け人と話したのだと。誰もが聞きたがるライト兄弟の栄光の物語。そして、爆撃機への功罪。
「飛行機は戦争を終わらせるためのものだ」
そう信じていた時は遥か遠く、今や自分が誰なのかも分からない。そう嘆くオーヴィルの背後から、兄が呼びかける。
「オーヴ」
続いてキャサリンが呼ぶ。
生気を失っていたオーヴィルの目に光が戻る。
「そうだ、僕はウィルバー・ライトの弟、そしてキャサリン・ライトの兄。オーヴィル・ライトだ!」
そうして、時間は彼らの夢の起点へと巻き戻る。
七十年の歳月を飛び越えて。
今回、私は最初にBチーム、次にAチーム、Dチームの順に観劇をしたのだが、奇しくも2回目の観劇はAチームの楽公演だった。席が上手だったため、この時、弟に呼びかけるウィルバーこと上川氏の正面に座っていた。
「オーヴ、」と呼ぶその優しい面差しを見た瞬間に、前に観た回の記憶がありありと浮かんできて思わず目が潤んでしまった。
当然、チームが違えば役者も違う。初回に観た時のウィルバー役は上口氏で、纏う雰囲気は勿論、弟との関係性も全然違っていた。けれど、私には確かに上川ウィルバーの柔らかな微笑みの向こうに上口ウィルバーが見えたし、二人は確かに弟妹を愛し、青空へ憧れを抱き続けた兄なのだと感じられた。
チームは違えど根底に流れる作品への愛は皆一緒。そう思い知らされたような気がした。
ストーリーはオーヴィルの回想を軸に進んでいく。兄弟が初めて玩具の飛行機を飛ばして空への憧れを抱くところから、物作りに興味を持ったエピソード、ウィルバーの挫折と再起、ライトサイクル商会の創業。リリエンタールの事故を受け、先人の遺志を継いで青空を飛ぶのだという研究への決意。
彩り豊かなナンバーと共に兄弟の記憶が流れ込んでくる。否、記憶ではなく記録なのかも知れない。私は、確かに二枚の翼の創世記を観ていたのだ。
ここで私が観た回の役者陣について触れたい。
まず二人のオーヴィルから。
オーヴィルは根っからの技術者であるにも関わらず言葉の扱いに長け、人の心を掴むのが上手い。父と兄を尊敬し、自分の心に正直に生きている。
鈴木氏のオーヴィルは、ウィルバーを心から尊敬し、その影響を受けて空を飛ぶことに夢中になっていく様がよく伝わってくる。いつも兄の背を追い、兄の夢と共にありたいと願う。それだけに兄弟の名誉をかけて戦い、誇りを奪還することに尽力し続けた晩年の様子が痛々しい。
少々マニアックな話をするならば、年老いたオーヴィルの立ち姿が本当に素晴らしかった。人間の重心線は、成人で耳垂から体幹のやや後方を通過し、くるぶしの前方に止まる。つまり常に後ろに引っ張られる重心を股関節のY字靱帯が屈強に支えることで立位姿勢を保つのだが、老年になると背骨が弯曲することにより重心が大きく前にずれる。そうなるともはや靭帯で身体を支えることは出来ず、全身の筋肉を使ってどうにかバランスを取らなければならない。つまり、単に不安定なだけではないのだ。鈴木氏のオーヴィルはこの表現が秀逸で、どの角度から見ても脚を悪くした老人であったことに感動した。
また、工藤氏は芯の逞しさを感じさせる力強いオーヴィルだった。兄を尊敬し、その隣に立つ自分自身を誇りに思っている。根底から揺るがぬ信頼と自信が伝わってくるのだ。それなのに「兄さんかっこいい!」と言う場面ではその感情をしっかり噛み締めてしまうギャップがチャーミングで、その緩急がとても可愛らしくて魅力的だった。
キャサリンは門田氏と福室氏の回を観たが、門田氏演じるキャサリンは軽やかで華やか。声が長く綺麗に伸びて、くるくると可憐に舞う姿に思わずにっこりしてしまう。線の細い女性でありながら、兄弟をしっかりと支え続けた芯の強さも感じさせる素敵なキャサリンだ。
一方で福室氏は誕生の瞬間から力強く、笑いを誘うけれどほっこりするそのシーンがとても好きだった。末妹でありながらライト家を一身に背負って切り盛りする、その逞しさの中に時折り見せる柔らかさがとても良かった。だからこそ、晩年になって初めて恋をした時の内面の変化がとても際立っていたように思う。
そしてウィルバーだ。
最初に観たのは上口氏だったが、ダンディーで頼り甲斐のある、素敵な兄さんだった。オーヴィルとの関係性はどちらかといえば対等に近く、まるで一対の翼のように見えた。紳士然として、努力・誠実というイメージが一番しっくりくるウィルバーだったように思う。
そして上川氏。初めに触れた通り、全てを包み込んでしまうかのような優しい笑顔に初っ端から全てを持っていかれた感がある。包容力の塊。THEお兄ちゃん。その広い懐に弟も妹も安心して甘えることができる、こんなお兄ちゃん欲しいな、とつい思わされてしまう、そんなウィルバー像だった。
最後に鈴木氏。それまでに二人の大らかなウィルバーを見てきた私は仰天した。こんなに神経質そうな兄の演技プランもありなのかと。しかし考えてみればウィルバーは19歳でうつ病を発症している。あらゆることに秀で、自信に満ち溢れていた彼が全てを砕かれ己を再構築した3年間を思えば、十分に有り得た人物像である。鈴木氏ならではのセンスに深く納得せざるを得ない。
そして特筆すべきは12月17日のファーストフライトデーイベントでのみ観ることができた幻のチームF、鈴木ウィルバーと百名オーヴィルのコンビである。百名氏の柔らかさがそうさせるのか、繊細な兄を包み込む弟・弟の隣だからこそ安心して強くあれる兄、という全く新しい構図が出来上がっていた。短編のリーディングでこんなにもワクワクさせてくれるのなら、もしこの二人が本編を演じたらどうなっていただろう。今となっては見果てぬ夢である。
最後に、森氏の演奏なくしてはこのミュージカルは成り立たなかったと思う。果てない青空への憧れを、兄弟を襲う逆境を、言葉を介さない音の波として伝えてくれる。舞台上を自由に舞う役者が降り立つ大地を奏でる。静かに、それでいて雄々しく、どんな時も自然に寄り添う。まさに伴走である。
この数日間、私は普段は手放すことのできないイヤホンを全く使っていない。今も耳に残るあの調和が消えてしまうのが惜しいのだ。
人生とは大抵が波瀾万丈なものだ。
ライト兄弟の人生も、決して栄光に満ち溢れるばかりのものではなかった。空を飛ぶことを夢見た彼らを奇人変人扱いしていた者たちも、その成功を目にするやこぞって飛行の研究を始めた。目に見えない利権というものは在って無いようなもので、兄弟が取得した特許を侵害し、その功績を奪い取ろうとする者さえ現れた。それだというのに、世論は何故戦闘機の功罪ばかりを彼らに問うたのだろう。
「始まりは夢だった。しかし、その夢はあっという間に奪い去られた。もはや飛行機は我々兄弟のものではない。今、死は空から降ってくるのだ」
晩年のオーヴィルの嘆きは、今なお人類が抱える葛藤であるように思う。
最新の技術はいつだって誰かの夢から生まれ、誰かを扶けるために開発されていくはずなのに、確立されれば必ずそれを悪用しようとする者が現れる。
ウィルバーの言葉を借りるのであれば歴史は繰り返し、オーヴィルの言う通り人は堕落していくことにこそ長けている。
二度の世界大戦を終えてなお、地球上から戦争は無くならない。人間は利害関係無しには生きられない生き物だが、その最終形態こそが戦争である。それは文明が進むほどに悲惨なものとなり、火種となった利権とは関係のない人たちが犠牲になる。
一見、日本は平和な国だ。画面越しに内戦や紛争のニュースを見かけたところで、その戦火を間近に感じることなど無いだろう。恥ずかしながら私自身もそうだ。けれど、こうしてライト兄弟の人生を追体験することは考える切っ掛けを与えてくれる。
歴史は繰り返し、人が人である限り争いは無くならず、技術の進歩はさらなる殺戮兵器を生んでいくのかも知れない。そして、私一人が考えを巡らせたところで何も変わらないのかも知れない。けれど、誰もが考えるのを諦めてしまったら、それこそ終わりではないのか。今ある世界の姿は本当に正しいものなのかを考え、その問いを投げかけ続けることこそが〝進化〟なのではないか。
『翼の創世記』には、創り手からのそんなメッセージも込められているような気がする。
最後に書き留めておきたいことがある。
実は、あまりにも歴史に疎い私は、観劇前にライト兄弟の一通りの情報を頭に入れておこうとWikipediaを眺めた。しかしそこに散らばる情報は私にとってバラけた文字の羅列でしかなく、その時点では読んだ内容の半分も頭に入らなかった。
しかし、数回の観劇を終えてもう一度同じページを読み返した時、そこには未知の色彩に溢れた世界があった。数日前にはほとんど意味を為さなかった文字列が、鮮やかな個性を持って生き生きと視界に飛び込んでくることに心から驚いた。
世界が広がった、と感じた瞬間だった。
私たちは日常を生き、それぞれの生き様に応じた世界を構築する。観劇は、自分ではない誰かの人生を追体験し、本来であれば知ることのできない世界に触れることができる貴重なエンターテイメントだと思う。
演出家を始めとする創作チームは、彼らが創造し、構築した世界を私たちの中に再構築するために、それこそ血を吐く思いであらゆる手段を講じるのだと思う。そこに携わった経験は無いが、それでも作品の完成形を見ればその裏にどれ程の苦労があったのか、想像することはできる。私たち演劇ファンにとっては、果てない挑戦を繰り返す彼らこそが、世界を拓くフロンティアであるのかも知れない。
昨日まで何の変哲もなかった飛行機雲が、特別なものに変わる。
真っ白な鳥の羽に憧れた兄弟を想起させる。
そうして、私は初めて出逢う青空を見上げるのだ。