『chill moratorium』における考察
Chill Moratorium。
それは誰かの記憶。泡沫のように優しい夢。
2024年秋(…だよね?毎日鬼のように暑いけど秋だよね?)に再演真っ最中の、西田大輔氏による朗読劇である。否、朗読劇のようなものである。
演者は確かに台本を持ってはいるのだけれど、それはまるで資料片手に討論する識者たちのようで。あるいは大好きな絵本を抱えてうずくまる小さな子供のようで。朗読劇の台本さえも異世界を魅せるための小道具してしまう西田氏の脳内は一体どんな構造をしているのか、毎度毎度不思議で仕方ない。
さて、本当は一から十まで事象を拾いながら感想を述べたいところだが、今現在の手持ち時間がそれを許してくれそうにないので此処では私なりに解釈した一つの考察を述べてみようと思う。
勿論がっつりネタバレをしていくので、「あ、そういうのは結構です!」という方は回れ右だ。
まず、よく西田マジックで使われる時間軸のズレ。
これが今回も多用されている。
ヤコブとジェルソミーナの物語、そしてクラウンたちが語りかけてくるあの優しくも残酷な世界。これがまず同時間軸ではないのだ。
先に種明かしをしてしまうと、クラウンたちが「2030年が70年後」と話していることから〝彼ら〟が存在していたのは1960年代。
そして、最終的にポヤンスキーが自我を取り戻すのは1989年だ。これについてはポヤンスキーが殺人事件を起こしたのは1963年であり、それが26年前であると作中で明言されていることから分かる。
さらに、物語の序盤ではポヤンスキーの時間感覚も曖昧であり、まさにCASE1でジェルソミーナがヤコブに事件の捜査協力を求めた段階では、少なくともそれが四半世紀も前の事件であるとは、私たち観客は誰も思っていなかったはずである。
二つの物語を整理してみよう。
まずはヤコブの物語。
マーカス・ポヤンスキー(ヤコブが生まれる切っ掛けとなった主人格)は1960年代のドイツで暮らしていたのだが、ある日突然建造された壁によって妻と東西に分断されてしまった。
妻は西側で、東に取り残された夫を想いながら毎日のように思い出の映画を観に通う。日々を泣き暮らして、とうとう人生を諦めかけたときに出会うのが後の再婚相手となるモーリッツ・クルトである。
一方で、徴兵されたポヤンスキーは来る日も来る日も聳え立つ壁を見張る責務を負っていた。ある日、同年代の子とは話が合わないのだというナンシー・アドロフと知り合う。同僚のハンス・コルターマンと共に彼女と親交を深めたポヤンスキーは、妻と見た想い出の映画、フェディリコ・フェリーニの『道』の内容を何度も語って聞かせる。東ドイツでは節制が強いられていたため、実際には観ることのできない映画に憧れたナンシーは、壁の向こうから穴を掘ってやってきたネズミに映画の主人公と同じ〝ザンパノ〟という名前をつける。
しかしザンパノは何らかの事情により死んでしまう。少しでも元来た西に近いところへ埋葬しようと壁に走り寄った際、ナンシーはポヤンスキーの同僚であるコール・ランメルツに射殺されてしまう。恐らくナンシーを思い止まらせようとしていたのであろうコルターマンも同時に射殺されている。この顛末を見ていたポヤンスキーは、その非道さに怒りを覚えランメルツを撃ち殺してしまう。この際、精神的な負荷に耐えられず自我を失い、代わりにヤコブという仮の人格がポヤンスキーの中に生まれたと考えられる。
因みにビアンカ・キスケという少女については、ナンシーに迫られてヤコブがあの場で無理矢理捻り出した思いつきの人格であるため実在はせず、カルテにも載っていない。象徴的に何度か登場するあのカルテには、恐らくヤコブがその身の裡に取り込んだ人格がピックアップされていたと考えられる。
次に、クラウンたちの物語である。以降は便宜上〝西田クラウン〟〝田中クラウン〟と呼ぶことにする。まず、「あちらの国には壁があってそれどころじゃないでしょ」という会話から、彼らは少なくともドイツ以外の何処かの国の研究者であることが分かる。西田クラウンの発言から推測すると、恐らく社会学、人類学、心理学などが専門だったと予想される。彼らは、彼らの研究を進める傍ら、ユニバース25という都市計画のシミュレーション実験を行っていた。
西田クラウンと田中クラウンには強い心の結びつきがあったが、田中クラウンは病でこの世を去ってしまう。この時の「君の病気だけは誰も治せなかったんだ」という台詞から、西田クラウンは少なくとも〝病を治す側の集団〟に属していたことが窺える。
そして田中クラウンの死の知らせを「世界が終わる音」と称していることから、西田クラウンの心はそれを切っ掛けに閉ざされてしまい、ヤコブとジェルソミーナの時間軸に至るまで記憶の檻に閉じ篭っていたと考えられる。
以上が物語に基づく事実の類推である。
以降はこれを元にして、実際の演出と照らし合わせて考えてみたい。
まず、冒頭から我々に問いを投げかけてくるクラウンたちの世界。あれは全て西田クラウンが見続けている幸せな夢だ。だから彼らはクラウンの姿をしているし、その言葉は断片的かつ謎めいている。
では、現実の西田クラウンは何をしているのか。これはちょっとした想像だが、CASE2にて田中クラウンがポヤンスキーの紹介をした時、西田クラウンに向かって「図らずもあなたも!」と言うシーンがある。それに対して西田クラウンが楽しそうに頷く流れから、おそらく彼の名前がポヤンスキー、もしくは職業が同じ医者なのだろうと考えられる。あるいはその両方か。そうなると西田クラウンは今、医者として元東ドイツの兵士たちの治療に訪れているとは考えられないだろうか。
そしてその治療には、彼が夢の中で田中クラウンに話していた〝夢の情報を数字に置き換える技術〟が使われているのではないだろうか。
マーカス・ポヤンスキーは26年前の事件以来、精神を病んでその主人格たる心を閉ざしてしまっている。そうなると、事件の解決に先立ってまず優先すべきは心の治療である。そのための方法が、彼の精神世界に医師ジェルソミーナとして、あるいは医師ポヤンスキーとして干渉することだった、と考えることは出来ないだろうか。
作中では、多重人格者に「多重人格者であること」を伝えるのはタブーであると何度も強調される。さらに、くどいほど「ゆっくり」と繰り返される。
このことから考えられるのは、この治療の被験者(ここでは敢えて患者ではなく被験者という)たちの多くは、この干渉に耐えきれずに心が開かなくなってしまったのかも知れないということだ。だから西田クラウンは、恐らく最初からポヤンスキーの治療も上手くいかないだろうと諦めてしまっていた。それに対して、夢の中の田中クラウンが「(ポヤンスキーの)世界をただ見つめましょう」と諭していたのだと考えると何となく辻褄が合う。そう、あくまでも何となくだが。
最終的に、ポヤンスキーは己の中の自己と向き合い、一つの人格として統合される。そして、それを見つめ続けた西田クラウンの心にもそれまでとは違う視点が生まれ、初めて外の世界へと目を向ける切っ掛けとなる。
ユニバース25のネズミとナンシーが出会ったネズミは全くの別物かも知れないし、あるいは田中クラウンが逃したネズミたちの子孫がザンパノとなったのかも知れない。けれど、結果的にはネズミという存在がオーバーラップすることにより二人の精神世界は繋がり、ポヤンスキーと西田クラウンはそれぞれに自らを囲っていた壁を壊した。無限に開いた世界の中で個となり、初めてその孤独と向き合うことになった彼らこそが、本当の意味でのビューティフル・ワン〝美しき孤独〟だった…というのが、この朗読劇のテーマだったように私は思う。
あの椅子に囲まれた空間はポヤンスキーの意識の中であり、それを観察する西田クラウンの意識の中でもあったということだ。
夢と現、想像と現実の狭間、そして入り乱れる時間軸の中でその境目が分からなくなり、観客である私たちまであの不思議なモラトリアムに取り込まれてしまうかのような構想は、それこそ〝奇術〟としか言いようがない。
当初の想定よりかなり長くなってしまったが、以上が私の考察である。
私が観劇したのは今のところ16,17,19日のマチネだけだが、脚本は同じなのに演じ手によって全く違う世界が見えてくる、本当に摩訶不思議な作品だった。
特にジェルソミーナが男性になるチャーリー編では、ほんの少し台詞と設定が変わるだけなのに、いつの間にか大きく違うストーリーになっていく。そのことに気付いた時には鳥肌が立った。
せっかくここまで書いたので、推しのことにも少し触れておきたい。
いやもう、鈴木勝吾氏が最高だから観て!
ヤコブは勿論のこと、しょごクラウンね!
もう全然違うバックボーンが見えてくるので、ぜひ西田クラウン回と比較してみてほしい。良子さんとの掛け合いの台詞はほぼ変わらないのに、その空気感と間の取り方の違いで、同じ〝大切な存在〟でありながら全く違う輪郭が見えてくる。
もう本当に、あらゆる条件が許せば役者さん全員の回を観たかったし、何なら三浦ヤコブとしょごチャーリーとかも観たかった。なぜ私には資金と時間が無いのだろう。
推しのことを書き始めたら途端に頭が働かなくなったので、今回はここで書き収めようと思う。
『chill moratorium』
今週末まで東京公演、そして来週の大阪公演と続くので、本当に、本当に沢山の方に届いてほしいと思った作品だったことをここに記しておく。