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さわやかな冬の風が吹く中で目を瞑る

これから目を瞑って、瞑想しようと思えた時点で、もはや瞑想する必要はないと思うんだよね。

これは僕がよく思っていることで、よっぽど調子が良かったり、精神的な余裕がなければ、今から目を瞑ろうと思えることはなかなかない。なので、目を瞑ろうと思えている時点でその時の僕はもうかなり整っているし、余裕があるということだ。

と、いうことを文章の始まりに書こうと、瞑想している中で思いついたので、つらつら書いていこうと思う。


学生時代に東京に住み、学校や仕事終わりで家に帰る時、玄関の前の外階段でたばこを吸うのが好きだった。冬は特に気持ちが良くて、冷たい空気と煙がぶわぁーって肺に入ってきてどこまでが自分の息で、どこまでが煙がわからない白いそれを、ぶわぁーって吐くのがなんとも気持ちよく、好きだった。

最近、味覚を鍛えるためにたばこをやめてしまったのだけれど、たばこをやめても僕がたばこを好きなことは変わらない。ふとしたときにたばこを吸えない人生なんてとてもつまらないし、たばこを吸っている時の幸福感や多幸感を味わえない生活は少し味気ないのだけれど、味覚と引き換えに少しだけ味気と哀愁のない人生に足を踏み入れてしまったことに後悔はない。

でも最近は本当吸いたいって思うこと全然ないから、これもこれですごい!


日曜日だからみんないい顔して歩いてるね。東京に久しぶりにきてから出会った子がふとそんなことを言った。

僕は僕なりに色んなことを感じている。たぶん、結構いろんなことを感じているし、考えている。

でも、一緒にコーヒーを飲んでいて同じ空間にいながら、僕はそんなことには全然気が付かなかったし、感じてもいなかった。しかし、その子は日曜日に街を歩く人々の表情をみてそんなことを言った。

そんな何気ない一言が、その子がどんな子でどんなことに興味があって、自分や相手のことをどう見ていて、毎日をどう生きているんだろうかという興味を僕自身にもたせた。

そう思うと、僕はふとした時のふとした人のふとした言葉をとても大切にしていることにあらためて気づいた。

じいちゃんが死ぬ間際に言った、「小さくまとまりすぎるなよ」という言葉。

とっても好きだった人が言った、「わたしはどこまでも正直だよ」という言葉。

僕のお師匠が言った、「大義を持って生きようじゃないか」という言葉。

シャケバイの仲間が言った、「悲しい、寂しいという思いを感じる自分を大切にして、その思いを味わい尽くせることが幸せじゃん」という言葉。

そんなふとしたときの、仲間や大切な人の言葉たちが僕の一部を確実につくっている。


今日が昨日よりも少しでも良い世界になるように。
明日が今日よりも少しでも良い世界になるように。

これは新しい僕のお師匠が言っていた言葉。

おわり。

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