「年賀状」
年賀状を出す人を尊敬する。
もっと言えば、きちんと元旦に着くように投函する人のことを尊敬する。
いつの頃からか、来た年賀状の返事しか出さなくなってしまった。
最近ではメールで済ましたりして。
うむむ…人として成していないなぁ。
僕の実家には、かなりの年賀状が届く。
ほとんどが父親宛なのだけれど。
高校生の時に郵便局のアルバイトに行っていたからよく分かる。
中井家に届く年賀状の数は世間一般から比べて多い。
子供の頃は、よく年賀状の作成や整理を手伝わされたものだ。
年末のみならずお正月中も“プリントごっこ”なんである。
そんな家だから、僕も大人になったら自分の両親のように色んな人から多くの年賀状を貰える人間になりたい、と思っていた。
思っていたのは事実なのだけれど、これがいつの頃からか辛気(しんき)臭く感じるようになった。
“辛気臭い”とはつまり、なんか面倒臭く感じるようになったということだ。
エライ人が大きなお墓を建てて権力を誇示したように、要するに大量の年賀状という存在に権威主義的な意味合いを感じたのだ。
携帯メールの返信されてくる早さで友達同士の信頼度を確認するようなものかな。
なんかそんなことどうでもいいや~、みたいな。
だからといって、僕が年賀状嫌いという事にはならない。
別に親からだって年賀状にまつわる正しい社会人の在り方なんぞを叩き込まれた訳でもないし。
なので、この自分自身の社会性の無さには辟易としている。
「年々、年賀状の数が減ってきています」なんてニュースを聞くと何故かホッとする僕がいる。
日蓮が門下に当てた手紙の中の一文に、こんなのがある。
「書は言を尽くさず、言は言葉を尽くさず、
言葉は心を尽くさず、時々見参の時を期せん。」
現代風に言うと、手紙よりメールより電話より逢って目を見て話すことが時には必要だ、ということになる。
なので、直接に年始の挨拶に行って年賀状不精の性分はチャラにしてもらおう。
(その方が余計に辛気臭いではないか)
ちなみに僕は通っていた大学の関係で何だったら親鸞門下だからなぁ…。
すいません僕の周りの皆さん、これからは頑張ってちゃんとします。
そして、新年あけましておめでとうございます!
では、これをもって年賀状と変えさせていただきます(笑)
#なごみの手帖 【2005/12/31 HP更新】