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お代わりコーヒーと、大人になってしまったのかもしれないバナナの日

彼のことを、永遠にわかってあげられないのかもしれない。


あるいは、彼のしてくれるアレコレを、永遠に愉快に思えないのかもしれない、と思う。


それは、事実わたしを落胆させ、虚無感に似た雰囲気を身体中に漂わせる。


一般的にとか、平均的に、とかいうことではなく、ごく単純に、わたしにとって彼はクセモノだ。今まで出逢った、どんな人物より不可解。


出逢ってこのかた、お互いに理解し合えたときにだけ立てる、二人だけの場所に一度も立てたことがない。それは、世界中で立っている本人同士だけが実感することができ、立っているだけなのに幸福の笑みがこぼれ、このまま溶けてしまうのでは無いかと思わせる、祝福された場所だ。


そこは、神様でさえ嫉妬してしまうような場所で、「あんたたち、ほんとうにラッキーよ。その感触、永久に忘れず、心の宝箱にしまっておきなさい」と、言わんばかりにほくそ笑む。

人ひとり、生きているうちに、数回と来ない、

でも、確かに存在する場所なのだ。



何ヶ月も毎日一緒に居て、私たちはなぜーーどうしてそこに立てないのだろう。

二人睦み合って暮らしているのは、実態だけなのだろうか。中身は、それぞれの願う幸福さは、ないのだろうか。


そこまで私たちは、圧倒的に孤独なのだろうか。

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二人だけの場所というのは、過ぎ去っていくだけの時間に対して、完全にエターナルなものだ。

もっと言うと、それは恋人同士にだけ起こるハプニングではなく、特別な(あるいは特別ではない)友人や、二度と会うことのないような人とでも、起こり得るハプニングだ。人数に至っても、二人の場合が多いと思うが、それ以上であっても可能性はある。

それに、恋人や家族、親友とは、長い時間を過ごしてしまっている分、確率としては低くなるので、無いように感じるかもしれないが、

ちゃんとある。


すっかり、冷静に戻ってしまった。

スタバのコーヒーは美味しくて、また、お代わりという優しいサービスが好きなので、入った。二杯目を飲み終わるまでには、一杯目の最中に思いついた、この書く予定のなかった原稿を書き上げようと意気込んでいたのに。結局、なにかの弾みでお代わりチケットを無くしてしまった。わたしという人間は、ことごとくどうしようもない、と呆れる。

それでも、もう一杯美味しいコーヒーが飲みたいので、改めてソーシャルディスタンスの列に並ぶから、また呆れる。(笑)


『なにかの弾みでお代わりチケットを無くしてしまった。』などと書いたけれど、そんなはずもなく、わたしは、ごく単純に久しぶりの人混みに困惑している。

椅子やテーブルなどに憮然と貼られている”間隔を空けてお座り下さい”というステッカーを見て、ここに座ってもいいのだろうかと戸惑うお客や、

この店に入っている誰彼よりも賑やかで楽しそうな高校生や、

蛍光ペンがたくさん入った自立型の筆箱を携えている浪人生や、

わたしと似ているように見えるさみしげだが落ち着いた装いの女性なんかが居て、

それぞれの過去や今や未来のような計り知れない、だが、かけがえの無い何かがあることに、ただ戸惑っているだけだ。


世界はわたしや私たち以外の人で成り立っており、それは何よりも確実な事実なので、だから、わたしがことごとくどうしようもなくても大丈夫だということに、

どちらかというと救われていると言わなければいけない。


彼は、わたしのことを”わかってあげられないかもしれない”などと思い悩まずに、ごく単純に、帰ってくるだろう。

あるいは、帰ってきてくれる、のかもしれない。


彼は、バナナが食べれない。


2020年8月7日(バナナの日)

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