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それでも、創作は続く

言葉を書くなり音楽を作るなり絵を描くなり、それはなんでもいいんだけど、無から何かを創作をするってことは、喜びの反面、孤独で苦しい。ぶっちゃけ、わたしの場合、楽しい二割、あとはしんどい。孤独。好きだからしていることだから、誰にも言い訳も出来ないし。

しんどいのは、言い訳出来ないのにいちいち何かと比べるし大袈裟にいろんなことを、落ち込むから。関係ない人の関係ない成功が羨ましくて、勝手に嫌になる。だったらいっそやめればいいじゃん、なのに、散々迷って結局やめない。結局、好きだから。でもなぜ、好きなの…わかんない…(その不毛な繰り返し)

正直、こうやって言葉にするとまるでばかだな、と時々思う。だからあんまり言わないようにしてるんだけど、たまには書いて自分を整理したくなった。

最近はそんな紆余曲折に疲れたのか、実は承認欲求的な感覚はなんとなくどうでもよくなってきた。面倒になったのかもしれないし、体力なくなっていい意味で枯れたのかもしれない。あと、時間は無限じゃないことにようやく、気付いたのかもしれない。
おかげで、つくりたいっていう気持ちに純粋なものがたくさん混じってきた。ただ、自分にとっていいものがつくりたい。そのために何をすべきか的な感じに。

問題は、そうやって珍しく気分よくフル回転してるときに限って、たまに古くさい昔のなにかがわたしの邪魔をすること。むかつく。うまく出来なかったとき。誰かがきらきらしてたり、注目されてたり誉められたりしてるのを、つい見てしまったとき。本屋に行って、平積みの本をたくさんよだりしてるとき。

いわゆる、そういう成功だの注目だのが、物事の真実とか本質なんか捉えていないのは百も承知で、なのにわたしの頭はそれをすぐには納得しない。懐かしく落ち込んで、懐かしく嫌な気持ちになるありきたりルーティーン。時間ないのに。承認欲求、減ったけど別に消えてないね、と、うすーーく、落ち込む。

時間ないのにばかみたい。あーまじで自分、超絶あほみたい。
いつまでこんなことやってんの。もう、答えはとっくのむかしに出てるのに。

そんなとき、

慎ましやかに生きてんのに、いつもなんかが邪魔するんじゃわ、

って藤井風のPVの歌詞を見て、痛いほどに膝を打った。
わたしの「なんか」は、いつだってわたし自身なんだよ、って思って。

この、枯れてるのに枯れなさを抱き締めて、滑稽だけど何とか躍りながら生きてくんだろうか。

七十億年ぶんの真似の産物が、どこへたどり着けるのか全然知らないけど。まあ、もう今さら戻れないから突き詰めようか。ばかだなーって笑いながら、自分という人間のなかにあるなにかを。突き詰めれば自分だけのものを、懲りもせず、探しにいこう。

この船が、これからどこへ流れて行くのかわからないけれど。

それでも。