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幸せになる念力
‘’「わたしはだめではない。わたしはなんでも出来る」と言ってみてはどうだろう。信じるということは、面白いことである。人の力でなく、自分の力を信じる。逃げてはいけない。追いかけなさい。念力というのは、なりたいと思う通りのことを一心に念じて、そうなる、力のことである。‘’
わたしの人生の師匠の一人である、作家宇野千代先生の言葉です。
これを殆ど暗記しているのにもかかわらず、わたしはわたしを「だめだなあ」とばかり言っているなあ、と反省します。
まいにち、がんばって生きているつもりなのに充実感はあまりなくて、がんばればがんばるほど出来ないことやわからないことが増えるような気がする。前に友人に、「貴女という人はほんとうに喜ぶのが下手だ」と言われて、また自分を「だめだなあ」と思うという、悪循環をしていたわけなのですが(笑)
ひとはみな幸福になりたくて生きているわけで、むろん、わたしもそうです。いったい自分にとってなにが幸福なのか、正直よくわかってはいないままに。それはたぶん、めがねを額にかけたまま、「めがねはどこ?」と探しているようなものなのかもしれないけれど。
だけど、じゃあわたしたちはめがねについて、どの程度知っているのだろう?
ただ目が悪いからかけているのか、ファッションとしての役割もあるのか、ただ単に、そうするものと、信じ込んでいるだけなのか。うーーん。
宇多田ヒカルの『テイク5』に、こんな歌詞がある。
どんな自分が幸せです
それを初めて聴いたとき、わたしはちょっと驚いたのでした。全然答えられなかったから。
どんな自分。どんな状況、環境、じゃなくて、「どんな自分」、です。
それで、はっ、と気づいた。
幸せは、状況じゃなくて、自分の性質なんだ、と。
こういうこと、書いてると普通に当たり前みたいに感じます。だけど、何度も悟ったような気になっても、こうしてまた、初めてみたいに、気づく。はっ、と。新鮮に。とても新鮮に。
つまり、自分を信じることの中に、幸せというのはある。
幸せを探して、必死に下を向いて歩く必要なんかわたしたちにはなくて、ただ、そうなればいい、と願うだけでいい、という、宇野先生の尊い言葉に行き着くのです。
わたしを、だめだ、と言う代わりに、わたしの全エネルギーを、この呪文に集約してみよう。何度でも。
‘’しあわせになるのは、簡単です。まわりのひとすべてに、わたしはしあわせだ、と、言って回ればよいのですから。‘’