自死遺族に出来る事
家族が自死をするという事は、それだけ自死について考えさせられる。これはもう、宿命のようだと感じている。痛い程に残された者の気持ちがわかる。死にたい程に心は傷つくだろう。だけど自分まで死ねない。残された家族にまた同じ思いをさせるわけにはいかない。自死遺族は誰にも言えない悲しみや後悔を背負いながらも、生き続けていく事しか出来ないのだろう。
私の母は小学校5年生の時に自死をした。鬱病だったのだろうか。今だに真相は分からない。誰にもぶつけられない怒りを父のせいにしたり祖母のせいにしたりした。最後はずっと、精神薬のせいにしていた。精神薬が合わなくて、母は死んだのだと決めつけていた。何か理由が欲しかったのだろう。それが一番誰も傷つけない正当な理由だと思った。だからこそ、自分が精神病になった時も断薬する事にだけは、かなりの努力を要した。このまま精神薬を飲み続ける事で自分も母のような運命を辿りそうで怖かったのだ。そして、断薬に成功した私は精神薬反対の講演会に出たりユーチューブで薬害についての配信をした。自死の原因は全て、精神薬なのだと決めつけていた。悪の根源は全て精神薬だ、とさえ思い込んだ。精神薬を飲んでいる友達を見つけては、薬を止めるようにと説得した。しつこい程に薬を辞めて元気になろうよ、と言い続けてしまう。当人からすれば、全くもって余計なお世話なのかもしれない。精神薬を飲んでいても自死しない人もいるだろう。精神薬を飲んで、それだけが頼りで生きている人達も確かにいるのだ。
今はもう誰のせいでもなく母は、この世界の深い闇のような者に連れ去られたのだと思っている。自死する理由等、本当に決めつける事はできなくて色々な要因が絡み合った災厄の結果なのだろうと思っている。
母が亡くなり20年以上経った今、自死した人の命は残された者が繋いでいくしかないように感じてしまう。深い悲しみを最後に残して去っていってしまった人達よ。命の尊さを体を張って、教えてくれているようにすら思えてしまう。私は自死遺族にできる事は、ただ生を感じる事だと思っている。ただ生きて、喜怒哀楽の全てを味わって生きる事がせめてもの報いになる。そう信じている。